2015年6月11日木曜日

因島城跡物語 第1景 公文と地頭

いんのしまみち なかのしょうみち
伝説とロマンの島 因島城跡物

第1景 公文と地頭
2015.6.28.画:©tombosou 、協力:sumihara
因北小学校のあたりの賑わいは、因島の庄園時代がこのあたりで始まったことを思うと何か因縁めいたものを感じます。ゲートボール場の横に聳える山が片刈山で、頂上の段階状の平坦地は畑というよりも城跡だといったほうがわかりやすいでしょう。西麓の谷には庄園管理者の公文清原氏の住居跡があります。南の天狗山裾には地頭釜田氏の屋敷跡があり、その近くの八幡神社の森の端が小丸山城跡です。ここのふたつは、当時は海で隔てられていたと考えられます。なお、同時に存在したという訳ではありません。


片刈山城跡 青影山から。因島中庄町寺迫。標高124mの片刈山山上に、本丸、二ノ丸、三ノ丸が段状にある。東に出丸。南西の丸山(現在の水軍城近く)に出城があった。©tombosou 


 小丸山城跡 水軍城より。右に中庄八幡神社。因島中庄町釜田。城主は初代地頭釜田兵衛。©tombosou 

因島で、学習塾ではない公文(くもん)という地名に出会ったら、そこが庄園だったという大昔のことを今に伝える名残だと思ってよい。

考古学的研究の成果はともかくとして、文献から明らかにされた史実に遡れば、因島は平安時代末期に庄園だったということである。その頃は中庄、三庄であある。中庄の一部として重井浦があった。重井庄になるのは少し後である。

繰り返して書くと、大雑把に言って、因島の歴史は、三庄、中庄、重井浦の三つの庄園から始まる。三庄、中庄と言っても、もっと現在よりも広い範囲が含まれていた。

2015年4月、因島南小学校が開校した。土生である。大昔はこのあたりも三庄の庄園に含まれていたかもしれない。

なぜ、こんな大雑把な話をえんえんと書いているか、そろそろ気づかれたこと思う。因島の小学校、中学校が、今、大昔の庄園の配置に戻ったのである。このような対比は、因島の地形がおのずとそうさせたことが想像されるだろう。

この城跡物語の短縮版のはじめに、気安く、『公文と地頭」などというタイトルをつけたが、その歴史的意味は、決して単純ではない。古代荘園制を理解するためには、律令制を理解せねばならず、荘園制が変貌して消滅するまでの一大要素として地頭があり、完全に消滅するのが太閤検地だというから、荘園の消滅が近世のはじまりだと言ってもよいだろう。

地頭というのは、基本的には鎌倉幕府によって作られた守護地頭というように理解されているが、地方官のひとつぐらいだと思うと大間違いで、何とも得体の知れない魔物である。

まず、荘園制について述べよう。
われわれは戦後のマッカーサーによってなされた農地改革以後の、土地制度しか知らないので、地主だの小作だのと言われても、想像するしかないほどの乏しい土地制度の経験的知識をもっているに過ぎない。有料の借地は別にして、多くの農民は規模の多寡は別にして自分の土地を耕作し、生産物は自分の意志で売ることができる。そして、土地に関しては、固定資産税というものを支払わなければいけない。固定資産税が高すぎると思えば、売るしかあるまい。

さて、その荘園制についてどのように想像すればよいのだろうか。
まず、アメリカの黒人奴隷のような制度。映画「風と共に去りぬ」で、デフォルメされたものではあるが、多少は理解できる。少し違うだろうが、初期の荘園の農民は奴隷のようなものだったかもしれない。
ロシアの農奴制。これはよくわからないが、ドストエフスキーの小説などに出てくることからおぼろげながら想像するだけである。
フランスの領主制。といってもほとんど知らない。辻邦生さんの「フーシェ革命歴」にフランス革命前の封建領主とその隷属農民との悲劇的な関係がでてきた。
そして、日本の大地主制。例えば太宰治の伝記とか、映画「絶唱」やその原作などを読むと、戦後生まれの我々の想像を越えた世界が出てくる。
あるいはまた、コロノと呼ばれたブラジル移民。
・・・支配者と被支配者の関係は、このようないろいろな制度に関する乏しい知識から想像するだけで、日本の荘園制下における農民の姿は目に浮かばない。




因島城跡物語短縮版