2015年6月11日木曜日

因島城跡物語 第10景 最後の村上氏

いんのしまみち しげいみち

伝説とロマンの島 因島城跡物語 著者:sumihara、tombosou623crystal

第10景 最後の村上氏


2015.6.28.画:©tombosou 、協力:sumihara
小早川隆景は厳島合戦で活躍した因島村上氏6代村上吉充に、向島全域の支配権を与え、弘治3年(1557)に長崎城主から向島余崎城主にした。さらに隆景は三原移城のとき、杉原氏を重井から去らせ、吉充に重井の支配権を与えた。吉充は永禄12年(1569)年青木城を築城し、備後灘を見張る東の要害として、また控城として白滝山に観音堂を置き、馬神城には第三家老の末永景光、天秀庵には船奉行の片山数馬を配した。他に、細島茶臼山城や権現山中腹に見張り所(遠見山)も置かれた。また、城の鎮守として八幡神社を勧進したり、毘沙門天(後の善興寺)や山神を祀った。


白滝山から 青は昔の海。濃くした部分は、左から天秀庵城跡、馬神城跡、青木城跡©tombosou 

ほんとうは7代、8代も因島村上氏として扱うべきであろうが、6代吉充でもって因島時代をおわりにしたい。なぜなら、吉充には子供が無く、後は親戚の中から誰が家督、すなわち因島村上本家を継ぐかという話であるから。
それに7代、8代の因島でのことがわからないからである。

村上吉充が青木城主となったとき、因島は完全に因島村上氏の支配下に入った。それまでは、蒲刈小早川氏、杉原氏が因島の一部を支配していた。だが、海上権は因島村上氏が掌握していたという。

その因島の完全支配であるが、村上吉充が戦いで勝ち取ったというものではななく、小早川隆景の指示によるものであるから、既に小早川隆景の支配下にあったと言ったほうがよいのかもしれない。

白滝山の観音堂堂主が常楽院静金大徳で、細島にいた修験道者だった。この人が、重井の峯松家の祖と呼ばれる人で、その史跡は、峯松神社のほか、150年忌の石碑が小林(重井ではこばしと読む)の高照院(島四国)の隣にある。善興寺に寺院統合が行われる前、馬神の南方に正光寺があったというから、この辺りがその墓地だったのだろう。

白滝山を城跡と数えていないが、城跡だったと考えてもおかしくはない。今、白滝山頂上は観音堂広場とやや傾斜のある山頂広場の二段から構成される。山頂広場の頂上付近は更に東に日本大小神祇のあるあたりまでがやや急な平坦地になっている。これら全てが江戸時代末期に五百羅漢石仏工事で削平されたのではなく、もとからある程度の平坦地になっていたと考えたら、かなり大きな砦があったことが推定できる。

中島忠由氏は、土生の長崎城では後ろに荒神山、さらに引き続いて因島公園のある天狗山
があり、また向島余崎城は背後に高見山があり、重井の青木城も背後に白滝山があり、因島村上氏の本城の特徴として背後に山をもつことを上げておられるが、戦略上意義のあることだろう。

善興寺の前身となる毘沙門天は宮地氏の創建になる。善興寺の開基までに空白期間があったのか、その毘沙門像は重井にはなく、中庄にある。


因島城跡物語短縮版