2015年5月15日金曜日

因島中庄町 大江城跡物語

いんのしまみち なかのしょうみち 山伏山城跡物語⬅️ 大江城跡物語 ➡️天神山城跡物語
伝説とロマンの島 因島城跡物語 著者 柏原林造、住原俊治、村上知之

大江城跡物語


 2015.7.14.


2015.7.14.


城郭配置図。Yahoo地図へ田中稔「因島史考」の図を参考に書き加えたもの。
大江山全景。隠島神社から。
大江山の古い写真。



[所在地]因島中庄町大江。
[標高]30m
[城廓]五段の削平地、屋敷跡。
[城主]宮地明光
[史跡]石垣跡。
[現状]屋敷跡は公民館および駐車場になっている。その山際に大江投錨と呼ばれる小祠がある。
[その他]この辺りは海だったので屋敷は海に近かったものと思われる。
[交通]
[歴史]鳴滝城から村上氏を頼って落城してきた宮地大炊助明光は当初、田熊の天神山城にいたが、村上氏の第四家老としてこの地に住んだ。

字(あざ)名でいうと、中庄公民館の辺りが大江で、南西の奥山・大山方面が山口、反対側の八幡神社から東、徳永の西が釜田である。山口はもちろん山が切れたところの意であることは地形を見ればあきらかだろう。釜田は人名に由来する。大江は人名によるのだろうか、それとも地形によるのだろうか。
古くは山口の奥山・大山分かれの三叉路辺りまでが海で、そこに大きな常夜灯があった。道路拡張の際、その常夜灯の行き場がなくなったのか(土地提供者がいなかったということ)、現在は少し坂を上がった田頭氏宅の庭の隅に保存され、往事の名残を留めている。だから、公民館あたりが、かつては海だったと書くことになんら躊躇することはない。それゆえ、大江とは大きな江(入り江・海岸)と解釈してもよいかもしれない。
しかしここは、人名に由来する。宮地家は大江姓だから、ここが大江なのだ。・・・平家の西国支配は、何も安芸の宮島(厳島)だけではない。因島も平家の支配下にあった。周知のように源平の争乱の後平家は滅び、1192年に鎌倉幕府が開かれ、源氏の世となった。当然の結果として、因島にも東国武士がやってきた。因島の言葉や文化で関西風でなく関東風なものをそれに起因するという考え方もあるかもしれないが、ここでそれを議論はしない。
鎌倉幕府といえば著名な官僚大江広元の名が浮かぶ。その傍系か末裔かの大江氏がこの大江城を居城としたのであれば、歴史的には面白いが、残念ながら、そうは伝わっていない。田熊の大楠で有名な天神山城に住んでいた宮地大炊助明光が村上家の家老として住んだということである。大江城主が大江氏でなく、宮地氏であったことは歴史的には面白くないが、しかし反面、ここに宮地氏の名が出てきたことに私は大いなる興味を覚える。個人史を辿れば、因島からは狭い土地にして多くの著名人が排出されているが、その中に宮地姓の者が多い。憶測ではあるが、半分あるいはそれ以上の者が宮地姓あるいはその家系に連なるのではないかと思っている。その宮地氏は中庄だけでなく、三庄、土生でも栄えている。因島と言えば、村上姓と岡野姓が著名であるが、宮地姓の系図を辿ることにも、因島の歴史を考える上で大いに益するところがあるように思われる。
因島の宮地氏は尾道の鳴滝城から来る。それ以前はわからない。備中の宮地荘、足守の宮地山などが挙がる。井原市大江町にも宮地はある。越中との関連を示すものもいる。高山には宮地家がある。山形にもある。