2015年12月11日金曜日

夕凪亭閑話2006年3月

2006年3月1日水曜日
 雨で始まった弥生3月である。春が既に方々に来ているのに,午後からどんどん気温が下がり,ぶるぶると震えていた。今日は,近くの高校が卒業式で,雨の早春ながら,どことなく華やいでいた。私の住むこの地方では,県立高校の卒業式はだいたい3月1日と決まっているようである。そういえばかく言う私も35年前のこの日に,この近くの高校ではないが,田舎の小さな高校を卒業した。小雪が舞っていた。そして慌ただしく受験への旅立ち。それに続く放浪への旅立ちである。
 さて,昨日の与太話の続き。地球時間,宇宙時間と呼んでもおなじであるが,それが短くなっているという思いつきは我ながら感心しているので,もう少し続ける。その変化率は,神の時間で微分すればいい。ならば,神の時間で二階微分するとどうなるのであろうか。考えるだけ無駄というものかも。
 ビッグバンというのは,物事のはじまりだから,時間もそこから始まる。そしたら減るというのはおかしい。増えていかなければいけない。ひょっとしたら,宇宙の時間は増えているのだろうか。すなわち,同じ1秒が過去と現在では違う場合,増えている方が理にかなうような気がするが,やはりアホらしくなったので,このへんでやめておく。
 次は,少しまじめにタイムマシンについて考える。ここに著名な物理学者がいるとしょう。そしてひつ尋ねてみる。「タイムマシンは本当に作れるのですか?」と。「理論的には不可能ではないと,思います・・・」と予想通りの返答がある。「ばっかじゃなかろうか!」と心の中で,あるいは面と向かって大きな声で叫んだらいい。しかし,その前に,「それじゃ,過去に行って,私の祖父と祖母を殺して,私が生まれてこないようにしてほしい」と頼んでみよう。「理論的に可能だと言っただけで,できるとは言っていません。だから,そんなこと頼まれても・・・」という返答が続いたら,それ以上の会話は無駄というものでありましょう・・・。
 ということで,どんなに宇宙論が進化し,変貌しても,我々の目の前では,何もおこりはしないのではないでしょうか。
 
2006年3月4日土曜日 
   もう十分春なのに,朝夕が寒いですね。サザンカは毎日散って,その下には水仙の黄色い花が咲いています。池の水の色も,青い空を明るく反射して,やはり春の色です。
 遠い星から情報は光の速さで伝わりますから,1万光年離れた星は,今見ている姿は1万年前のものです。この星とわれわれの間には1万年の歴史が詰まっているのですね。ひょっとしたら,現時点ではその星はなくなっているかもしれません。5000年前に爆発か何かで消滅したとすると,我々とこの星との間の半分のうち,こちら側の半分にはこの星の姿があるのでしょうが,向こう側の半分はないことになります。もちろんその情報は光の速さで,こちらに向かって伝わってきているのです。
  話しをもう一度元に戻して,1万光年向こうにある星が,今もあるとしておきましょう。そして,光の速さで,その星の表面の映像が地球に向かってやってきている,というわけです。そして今は,1万年前の映像を我々は見ているわけです。1年前に地球で見た映像は,その星に対して地球と反対側へ進んでおり,1光年先へ行っています。だから今,地球からその星とは反対方向に向かって1光年先には,9999年前の映像があるはずです。(それを見るのではないのです,あると想像するだけです)
 さて,ここで,時間を止めて静かに考えてみましょう。この間の距離が1光年ですから,こちらから,この9999年前の地点へ行こうとしたら1年かかります。光の速さで行っての話しですが。しかし,その1年の間にその9999年前の姿はさらに1年分,すなわち1光年進んでいますから,光と同じ速さで追いかけていては,いつまでたっても追いつけませんね。そこで,光の2倍の速さで追いかけることにします。すると半年後に追いかける方は1光年先につきますが,9999年前の姿は地球から1.5光年先まで進んでいます。さらに半年かけて,すなわち,はじめから1年後でしたら,追いかける方は2光年先で,9999年前の姿も2光年先に達していますから,そこで追いついたことになります。ほんとうは,そこで止まって後ろを向けば,ということになりますが,まあわかればいいでしょう。
 ここまでは,時間を止めての考察でしたので,ここで再び,時間が動いているとして話しをしましょう。同じことですが。1年間,この星とは反対方向に向かって旅をします。その1年の間に,9999年の映像も地球から遠ざかっていますが,光の速さで遠ざかっていますから,1年後にはちょうどぶつかりますね。すなわち,そこは9999年前の世界なのです。おわかりになりましたでしょうか。光の2倍の速さで,1年宇宙旅行をすれば,1年前の時点に行けるのですね。これが結論です。ただし,余計なことは考えないようにしましょう。 余計なこと,というのはそれを地球から見て,とかいうような,頭を混乱させる状況です。
  地球から見るということは,その宇宙船の映像が光の速さで地球に伝わるということですから,これは大変です。双子の兄弟の一人が地球にいて,もう一人が光速の宇宙船で・・・・というのはよくある思考のパターンですが,光速旅行といえば,双子の兄弟を持ち出すのは,悪い冗談です。ここでは双子である必要はほとんどありません。地球から眺める必要もありません。さて,先の結論を一般化して,光の2倍の速さで1年宇宙旅行をすれば,1年前に行ける,としておきましょうか。同じことを書いているだけで,一般化でも何でもないじゃないか,と思われる方は,それで結構です。
 ここで少し算数の問題をやってみよう。1年間の光速の2倍での宇宙旅行で1年前なら,1ヶ月光速の2倍で旅行をすれば,1ヶ前に戻れることになりましょうか。1日すなわち24時間,光速の2倍で旅行をすれば24時間前に行ける。1分光速の2倍で飛べば1分前に戻れる。ここまで計算できましたでしょうか。できましたら,次へお進み下さい。
 光の速さの2倍で1年宇宙旅行をすれば,1年前に戻れるのだな。光の速さの2倍で旅行できるとしての話しではあるが・・・。ということは理論的には,すなわち光速度以上で運動できるとすれば,タイムマシンも作れるということか。ということで,3月1日にでてきた著名な物理学者の言っていることは,間違っていないじゃないか,ということになる。要は光の速さ以上で旅行できる宇宙船を作るという技術的な問題だけが残ることになる。今の調子で科学技術が進歩すれば2080年頃には可能かもしれない。そう思う方はどうぞ期待しておいて下さい。小生は,その頃には,あるいはそれよりもっと前に,この世とおさらばしておりますので,確かめることはできませんので・・・・。
  ここで,もう一人著名な物理学者が出てきて,「いや,それはやはり理論的に間違っている。1905年のアインシュタインの特殊相対性理論によれば,光の速さになるということは質量が無限大になることであって,そういうことは不可能だ」と言ったとしましょう。 ああ,これでタイムマシンの夢は消えてしまいました。・・・いや,アインシュタインかなんだか知らないが,今まで光速度になったものはないのだから,証明されたわけではない。速度は無限に速くすることができ,そのうちいつか光速度を越えることが可能ではないか。だから,タイムマシンは理論的に可能だ,と思う方が夢があっていいかも・・・・・。
 以上で,本日の与太話,終わり。
  さて,日経新聞には,渡辺淳一さんの「愛の流刑地」の後,二月から堺屋太一さんの「世界を創った男 チンギス・ハーン」が連載されている。30年ほど前,最初に就職した会社を1年で辞めて,今風の言葉で言えば,ニートをやっていた時,友人のつてを頼りに転げ込んだところが,日経新聞の販売所だ。新聞配達を終えて,有り余る時間を日経新聞のみならず,日経産業新聞,日経流通新聞(最近ではマーケットジャーナルという)などをゆっくり読んでいた頃が懐かしい。わが放浪記を書き出すと長くなるので,このへんでやめておきましょう。
 その日経新聞の最終頁の連載小説の本日のところに,私を驚かす記述があった。「一方,遊牧民の慣習では,末子相続,男の子は独立できる年齢になれば財産の家畜を分けてもらって親元を離れる。」とあるではないか。末子相続-ばっしそうぞく-というのは,昨年来私を悩ましている問題だ。
 瀬戸内外の漁業形態で,船に一家が住んで漁に行くというのが,かつて多く見られた。船住まいとか家船と呼ばれる。そこでは,すぐれた漁法が生まれたときから育っている船の上で伝承されるという極めて合理的な形態であった。そして,それを可能にする慣習が末子相続である,と理解していた。しかるに昨年読んだ資料の中に,末子相続でなかったという証言を見て困っていた。
 遊牧民のテントでも同じことだが,末子相続は合理的である。やはり,瀬戸内海でも船住まいでは,古くは末子相続であったのだろうと,他の資料に書いてあることを信じることにしよう。
 
2006年3月5日日曜日
 さて,1万光年彼方の星の姿を,9999年前の時点での映像として見に行くという話しは面白いので,もう少し考えてみたい。今日は,1年後の様子を地球でもどうなっているのか考えることにする。そこで月並みだが,双子の兄弟に登場してもらおう。さてどちらが宇宙旅行へ行き,どちらが地球に残ることにしようか。どちらでもいいのだが・・・。昔,「弟バカの法則」というのを唱える若者がいた。自分や友人達を見ても,みんな兄のほうが賢いし,いい大学へ行っているというのだ。兄が開拓者者で,そのあとを弟がついていくからどうしても,それ以下になるのだろうか。ともあれ,自分のまわりのことを世界の普遍原理だと考えるのは若者の特権であるから,笑って認めることにしよう。それに対して,独断と偏見を世界の標準だと思うのは老人の特権である。こちらは始末が悪い。
 ということで,パイオニアは兄のほうにしよう。そして弟が地球に残る。そして兄は9999年前の星の姿を見たら,弟に知らせることにする。「ハルとナツ」のように「きっと手紙を書くからね」「うん,私もきっと返事を書くからね」という具合に固い約束をして出発する。しかし,宇宙から手紙など出せるわけないから,無線で知らせることにする。無線の電波は光の速度で伝わる。
 ということで,地球で1万年前の姿を見た二人だが,兄が光速の2倍で9999年前の姿を追いかけて宇宙旅行に出発した。ちょうど1年後に,地球から2光年のところで,兄は9999年前の姿に追いついた。本当は少し前に着いて,うしろをふり返らないと,反対の映像を見てしまうので,よろしくないのだが,考察する上では差し支えない。
  さて,9999年前に追いついた兄は,無線で弟に手紙を送る。「やっと追いついた。今9999年前の光景を見ている。すなわち1年前に戻ったということだ。」興奮のあまり,こんあぶっきらぼうな手紙が,無線電波によって発せられる。今,ここは地球から2光年離れているので,地球に届くには,さらに2年かかる。弟はやっと届いた兄からの手紙をみて,ため息をつきながら言う。「僕は兄の出発を見送って3年も年をとったのに,兄は1年若返っている。僕に比べたら4年も若くなっている。いいなあ,お兄ちゃんは」
 以上で,弟バカの法則証明終わり。
 それはさておき,以前ラヂオでこんなコントを聞いたことがあります。みんなでお饅頭を食べていたときのこと。ある少女が訊ねる。「ねえ,ねえ,あなたの,お饅頭の中に何が入っていた?」「マロンよ」「いいなぁ。私のは栗だった」
  因みに,スペイン語ではマロンというのは茶色のことです。ドイツ語ではジャムのことをマーマレードと書いてあります。 
  相対性理論のお話をしているのでは,ありませんので,誤解のありませんように。以上で本日の与太話は,終わり。 
2006年3月7日火曜日
 メダカ飼育日記。暖かくなったので,池のメダカを掬って,発泡スチロールの容器に移すことにしました。黒と黄色を分けます。そして,ついでに池の底を浚い枯葉を替えだします。ヤゴが今日だけでも3匹でてきましたので,殺しました。池に残っているのにも,発泡スチロールに移したのにも,今日から餌をやることにしました。
 
2006年3月8水曜日
 日経新聞の「私の履歴書」には生化学者の早石修博士が書かれている。その中にトリプトファンの代謝で有名な古武弥四郎博士のことが,何度もでてくるので,今日は古武博士のことについて少し書いておこう。
 古武弥四郎博士は,竹久夢二と同じ,岡山県邑久郡邑久町のご出身である。現在は瀬戸内市になっているし,お生まれの時は,別の名称であったであろうが。そこから,朝4時に起きて,岡山市の岡山一中(現在の岡山朝日高校)へ歩いて通われたという話しは,地元でも有名な話しであった。当時の最短ルートがどのルートになるのかは,つまびらかにはし得ないが,吉井川や百間川を越えないといけないから,橋のあるところを通らねばならない。すごい距離だ。
 その古武博士が揮毫された「向上之一路」と書かれた書が額装されて,岡山県立邑久高等学校の校長室に掲げられてあった。その書を基に石碑が建てられたのは,昭和59年の3月のことであった。今も,その石碑は邑久高等学校の中庭に建っているはずである。鋳物で造られたその石碑の小さなレプリカの一つが,私の机の上にもあり,今でも文鎮として愛用している。「向上之一路」と右から書かれているのは,言うまでもない。 
  藤原正彦さんの「国家の品格」は品格のあるよい本でしたので,武士道について,何か読んでもみようという気持ちになりました。岩波文庫の「武士道」,日本の名著の「葉隠」,「日本外史」,三島さんの「葉隠入門」などが手の届くところにあるのですが,とりあえず,岩波文庫を開けてみると,前に読んだとき,赤線をひきながら読んだようですので,そこをざっと通して見ました。
「ニイチェのいわゆる専制的自己主張的なる主人道徳は,或る点においては武士道に近い。」などというのもあります。「武士道の徳は我が国民生活の一般的水準より遙かに高きものであるが,・・・とあるのですが,長くなるのでやめます。
 さて,今日はもうひとつ膨張宇宙論について考えてみたい。宇宙がビッグバン以来膨張し続けているのは,今日では常識ではあるが,かといってそのことを知らなくても日常生活に不自由は来さないし,膨張しようが収縮しようが,それで自分の生命が脅かされることは,ありそうもない。
 しかし,不思議なことだと,私はいつも思う。かといって,その結果自分の身体がこなごなに砕けてしまうのではなかろうかと,案じたりはしない。私自身にとっても,膨張しようが収縮しようが,その結果が生きているうちに影響を及ぼすことはないと信じているので,どちらでもいい。でも,膨張しているということは,一応認めておこう。
 膨張には二つのパターンがあるように思う。ブドウパンか,ゴム風船か。ブドウパンは焼き上がるとき,パンそのものは大きくなるが中に入っている干しぶどうは,ほとんど大きくはならない。一方,ゴム風船に人の絵を描いて膨らませると,描かれた人の形も大きくなる。このように宇宙が膨張していたら,インジウムとプラチナの合金でできたメートル原器も元気よく成長するということになる。何でもすべてが膨張していたら,比較の基準がないのだから,膨張していると知ることができない,と言ってこちらを捨て去る必要はないでしょう。この型の膨張でも,膨張していることを絶対に知るわけにはいかない,というわけではないでしょう。
 しかし,膨張宇宙論というのはブドウパン型のを言うようです。すなわち,宇宙は膨張しているがその中の人間とか地球とかいうのは,膨張していない,というわけです。ですから,例えば,気体の拡散のようなものを考えればいいのかも知れません。部屋の中にアンモニアの気体を小さな容器に入れておき,蓋をとります。アンモニアは次第に部屋中に広がって行き,その分薄くなります。しかし,アンモニア分子の大きさが大きくなるわけでも小さくなるわけでもありません。宇宙がこのように膨張しているのなら,エントロピーも考えることができることになります。
 
2006年3月9日木曜日
 梅も咲き,水仙も咲き,すっかり春になりました。さて,本日は逆二乗の法則について考えてみたいと思います。逆二乗の法則というのは,万有引力の法則とかクーロンの法則などに出てくる,距離の二乗に比例して小さくなるような量を表す法則のことです。
 物が落ちるのは,生まれたときから知っているように,高いものが落ちるのは当たり前の現象で,石が風もないのに勝手に飛んでいったり,浮き上がりしたら,それこそ困ってしまいます。狐狸狢らの仕業か,魑魅魍魎のいたずらかと思うしかありません。
 高いところにあるものが,下に落ちるのは当然のことです。それを重力だの引力だのと言われると,何か自尊心を傷つけられたように思いませんか。でも仕方がありません。南極でも北極でも手に持った冷凍蜜柑を離すと下の雪や氷の上に落ちてしまいます。残念ながら,現地で実験したことはありませんし,これからもこの実験をしに行くことはありませんので,信ずるしかないのですが,そう信じても間違いありません。だから,高いところにあるものは下に落ちるということが,引力に引かれているということを,いやいやながら認めることにしましょう。すなわち,二つの物体の間には引力が働き,落下の場合には地球が圧倒的に大きいので,物体がそちらに引かれるというわけですね。
 このふたつの物体間に働く重力という力の根元は何なのだというのが,本日の考察の対象なのです。二つの物体間に働く引力で,わかりやすいのは電気的な引力ですね。+と-の電荷が互いに引き合う,あれです。下敷きを服でこすって髪の毛に近づけると,ぱーと引っ張られますね。あるいは発泡スチロールを砕いてこすりあわせてみてください。もう始末に負えないですね。これが静電気的な引力です。この引力も距離の二乗に反比例しますから,逆二乗の法則なのです。
 水や机がそのままであるのは,これは化学的な力で,分子間力とか水素結合とか言われておりますが,それと万有引力はまったくといっていいほど関係ありません。それでは何かというわれるこまってしまいます。はじめに書いたように重い地球に引かれているように,重い方に引かれるという意味がこめられているのではないかと思うのですが,重力と呼ばれているようです。しかし,重力は重力で,それ以上の原因がわかっておりません。だから,高い位置にあるものは支える力を取り去れば落下するのが当たり前と思っていたほうが無難です。でもそれでは一般化できませんので,重力と呼ぶのです。(話しがどうどうめぐりだなあ)
 その原因のわからない重力ですが,考える根拠はできています。それはかの偉大なアイザック・ニュートンが発見したと言われている万有引力の法則です。二つの物体に働く力はそれぞれの質量のの積に比例し,その距離の二乗に反比例するというものですね。式で書けばいいのですが,このホームページでは,そういう面倒なことはするつもりはありませんので,小生のわがままをお認め下さい。すなわち,2倍遠くなれば4倍引き合う力が弱まるというのですね。これは遠距離恋愛と同じですから,多くの方が直感的に理解できると思います。
 直感的に理解できない方は,自分で考えてみてください。窓の外を見ましょう。近くと遠くを交互に見ましょう。二倍の距離のあたりを見てください。誰でも,少しぼんやりした感じを受けるでしょう。なぜですか。見る範囲が広がるからですね。二乗というのは何ですか。平方ですね。平方というのは何ですか。小学校の何年生かで,センチメートルの右上のほうに小さく2と書いて,平方センチメートルと読まされましたね。確か,面積をならった時に。そうなのです,二乗というのは面積のことなのですね。これを少し学問めかして書くと,二乗というのは面積の次元なのですね。一辺の長さが2倍になれば,面積は4倍になりますね。
 広がるんですね。だから弱くなる。光も同じでしょうね。ここで,遠距離恋愛の類推から縁を切りましょう。なぜならば,遠距離恋愛は普通,点と点の関係,すなわち1対1ですから,面積の考えにはなじみませんので。これからは,点と面,すなわち1対多と,考えましょう。
 ということなのですね。重力は弱まらないのです。距離が2倍になれば,その点との引力は確かに4分の1になっていますが,その距離にある面は4倍になってますから,距離が2倍になろうと,その距離にある面全体に働く重力の総和は一緒なのですね。具体的には,球面でしょうか。テニスボールとバレーボールを思い浮かべてください。中心と球の全表面との関係です。距離は遠くなりました。でも,球の表面積は随分と大きくなってますね。
 簡単な数式を出してみましょう。球の表面積を表す公式など学校で習った記憶はありません。参考書の隅のほうに載っていた記憶がありますが・・・・必要なときに探せばすみますね。4π×(半径の二乗)ですね。「心配ある事情」と覚えている方もいらっしゃるでしょうね。旺文社の,カシャカシャと押さえるとカードが入れ替わる,何とかメモとかいう器械にもありましたね。カードが詰まって使い物になりませんでしたが。余談ながら,球の体積は「身の上に心配あるので参上しました」と覚えるのだそうです。
 結論が出ましたね。万有引力の公式に,球の表面積を表す公式をかけあわせるのです。距離と半径がともにr ですね。これが消えます。すなわち,その距離にある球面全体にはたら引力の総和は変わらないのですね。ということは,重力はどこまでいっても減らないのです。散らばっているだけですね。だから,空間に一様に働いていると考えてもいいのではないでしょうか。
 それではその力を媒介するものは何かということになります。真空でしょうね。なぜならば宇宙空間でも万有引力の法則は成り立つのですから。そもそも,この法則は宇宙での話しだったのですから,当たり前のことですが。その真空にある重力を伝えるものは何か。目に見えない存在。小さな小さな粒子と考えて,名づけて重力子(グラビトン)というのでしょうか。
 知人のSuma君から,投稿した次の小論がWeb Journalに載ったという連絡が,かなり前だがあった。暇でない人も見に行ってあげて下さいWizard Biblehttp://wizardbible.org/  ) のWB24号です。(この前のは。23号) 
「そこからはまた,大学と恋と就職の話だ。間違っても最近読んだ本の話なんかにはならない。読書はいまや時代遅れの趣味なのだ」(石田衣良「美丘」第6回野生時代2005.5
 パラグアイの養鶏王,前原深氏の前原城が完成した。深氏は1995年に82歳で亡くなり長男の弘道さんが完成させたということである。前川深氏のことは中国新聞社の「移民」のp.268に紹介されている。資料によっては沼隈移住団ということになっているが,それで数えると,第9陣ということになるが,私は,8陣までを沼隈移住団と呼び,それ以降は沼隈移住団と呼ぶのは適切ではないと考えている。その理由は,第二の沼隈町をつくろうとしたラパスへ移住しなかったということと,完全に沼隈町関係者がいなくなっているからである。その(沼隈移住団から数えて)第9陣は,1958年4月17日に神戸港を出港して,6月にラパスに到着する。当時の記録では,「広島県より7家族40名到着入植するも適地なくアスシオン市,イグアス方面へ転出」と記されている。
 
2006年3月10日金曜日 
 朝から雨である。すっかり春になった。春の雨である。春満開とは言い難いが,春は加速度的にやってくる。
 今日は考察ではない。当たり前のことを書くだけである。万有引力の法則の力は,その前に運動の法則として定義されるのが,筋道というものだろう。すなわち,F=maのあの力である。Fが力で,mは質量,そしてaが加速度である。すなわち力は質量と加速度の積なのである。私はいつも思うのだが,これほど意味深い法則は他にないのではなかろうか,と思う。これこそがまさに物理である。法則中の法則,法則の王様が,このニュートンの運動の法則なのである。だから,これをこのような形で表現したニュートンが歴史上最も偉大な科学者ということになるのである。
 この法則も,シュレーディンガーの波動方程式がそうだったように,何かから誘導されるというのではなく,頭ごなしに前提として導入される。なぜならば,ニュートンの直感によって得られたものだからである。しかし,波動方程式なんかより遙かに理解はしやすい。それでいて奥は深い。そして,すべては,ここから始まる。
 Fは力の大きさを表す。ならば,力とは何か? こんなに難しい問いも珍しい。しかし,今では中学校の教科書にも出てくる。いろいろ書いてあるが,力の働きとして,①物を支える②物を変形させる③運動のようすを変える,と3点セットで上がっている。力については表現方法だのいろいろあるが,今はこれだけで十分である。こういうのが力なのである。おわかりいただけたであろうか。
 「向上之一路」の文鎮を宙に浮かそうと思ったら,右手なり左手なり出して,持ち上げるほかあるまい。いくら古武弥四郎博士が偉大だといっても,その文鎮が独りでに浮遊することはありえない。私が力を出さなくてはいけない。これが力のひとつの現れで,支える働きというものである。
 次はビールの空き缶を握る。普通の持ち方で軽く,そしてやや強く握ると,ビールの空き缶は形が歪む。すなわち変形する。このときに,手の力が働いたというわけである。これが変形させる働き。
 では最後の運動のようすを変えるということについて記そう。運動のようすって何だ? ということになる。それは速さと向きだ。合わせて速度ともいう。それでは力が働かないときの運動というのはどうなっているのか,というところから考えよう。きわめて簡単なことだ。止まっているものは,そのままだし,動いているものは動き続ける。すなわち速さも向きも変えずに動き続ける。残念ながら,完全に力が働かない状況を作り出すのが難しいので,あとは想像するだけだが,だいたいわかる。動いている方は,等速直線運動と呼ばれる。止まっているほうは,何と言おうとかまわないが,要するに静止しているのだ。以上が有名な慣性の法則で,力が働かなければ,物体は同じ運動を続ける,ということになる。静止も静止という運動である。
  最後の運動のようすを変えるという力のはたらきを表したのが,運動の法則F=maである。左に力,右に加速度がある。ということは大きな力が加われば,より大きな加速度がつく,すなわち運動のようすがより大きく変わるということを表している。加速度というのは,速度の変化である。速度というのは速さと向きを合わせたものであるから,同じ速さでも向きが絶えず変わっていれば,すなわち回っていれば,等加速度運動ということになり,それが等速円運動である。
 要するに速さや向きを変えるのに力が必要だ,ということである。あるいは,運動している物体に力が働けば,運動のようす,すなわち,速さや向きが変わるということである。速さと向きはどちらか一方の場合もあるし,両方変わる場合もある。どちらにせよ,力がはたらいているのである。力が働かなければ,向きも速さも変わらない。静止も含めて等速直線運動を続けるだけで,それが慣性の法則である。
 Fとaは比例していると言ってもいい。しかし,大きな物体は,あるいは重い物体はというべきか,ちょっと押したぐらいでは,なかなか動いてはくれない。すなわち,軽いものほどよく動く。同じ力の場合である。ということで,質量と加速度は反比例することがわかる。ということで,加速度は力に比例し,質量に反比例することがわかる。a=F/mと書いてもいい。ということで,この質量は運動の変化に対して逆らう大きさである。抗う大きさである。すなわち動くまいとする意志のようなものである。これが,この質量を慣性質量と呼ぶ所以である。
 そして当然のことながら,3者のうち2者がわかれば,残りの1者は簡単に求まる。それ故,この式は運動方程式とも呼ばれる。
 方程式には適用限界がある。すなわち,単位を決めておかなければそれらの関係が任意になってしまう。現在では,質量1kgの物体に,1m/sの加速度を与える力を1Nと定義する。Nはニュートンと読み,力の単位である。力の単位Nは質量×加速度すなわちkgm/sであるから質量×長さ×時間の-2乗の次元をもつ。
 すべてはF=maからはじまる。1Nの力で1m物を動かすと1Jの仕事をしたという。Jは仕事の単位だから,エネルギーの単位と同じである。すなわち1J=1N×1mである。これはまた1J=1kg×1m/s2×1m=1kgm2/sとなる。これはkg×(m/s)2と書いてもよいから質量×(速度)2となり,エネルギーは質量と速度の2乗に比例するということを示している。別の言葉でいえば,エネルギーと質量は等価だということであり,このことはアインシュタインによって1905年にE=mc2という形に定式化された。cは光速度2..99×108m/sである。
  ここで,ひとつ重要なことを忘れていることに気づいた。試みに机の上か,柱を強く押してみて欲しい。力を入れたのに,先に述べた3つの働きのどれもおこっていないということに気づかれたでありましょうか。支えてもないし,変形もしないし,動きもしない。矛盾している。そこで,仕方がなく考え出されたのが,反対に押し返されるという考え方。向きが反対で,同じ大きさで,同じ作用線上にある力はつりあうというから,そういう力が働いていると考えれば,納得。それが反作用で,押した力を作用という。このように押した力と同じ大きさの力で押し返されるということを,作用反作用の法則という。
 慣性の法則,運動の法則,作用反作用の法則が見事に統一がとれているではないか。これがニュートンの運動の第一法則,第二法則,第三法則と呼ばれているものある。そしてすべては,ここから出発する。
 核爆発で,もし人類が滅びそうになった場合,100人残っただけでは続かないと思う。1000人なら,何とか続くのではないかと思う。その残った1000人に何かを伝えるとしたら,伝える時間が残りわずかであるとしたら,何を伝えるか? アインシュタインの相対性理論? シュレーディンガーの波動方程式?  ともに必要ないと思う。必要な段階に達したら,誰かが思いつくでしょう。それよりも,やはりF=maを。これを伝えておくべきではないでしょうか。
 
2006年3月11日土曜日
 春霞のような曇った朝である。夕凪流物理学もいよいよ佳境に入り,ダッチロール寸前である。これからどこへ行くかは,私にもわからない。
 力を加えることにより運動のようすが変わるということを表したものが運動方程式F=maであった。ならば,どれくらい,力を与える続けるのか,という問題が生じる。すなわち力×時間ということになる。運動方程式の単位はN=kgm/s2であるから両辺にsを掛けるとNs=kgm/sとなる。右辺は質量×速度の次元である。左辺は言うまでもなく力×時間であるから,式で書くと,Ft=mvとなる。
 加速度は速度の時間微分であるから,両辺を時間tで積分しても,同様の結論が得られることは言うまでもない。
 Ftは力積,mvはp=mvと書かれて,運動量と呼ばれている量である。動いている自動車にぶつかると,金属とタンパク質との衝突だから,誰が考えてもタンパク質のほうのダメージが大きい。そしてまたその金属が速いほどダメージは大きい。鉄鋼を満載したトレーラーだったら,ゆっくり動いていても,ブロック坪くりは簡単に壊す。そんなイメージが運動量にはある。その運動量を増やすには力積すなわち,力を大きくするか,長い時間をかけるかの2つの変数で調整できる。
 動いている物体に対するタンパク質としての恐怖感は運動量だけによるものではない。人は本能的に速度の要素が寄与する割合が大きいということを知っている。すなわち,同じ質量の物体でも速いもののほうがタンパク質にとっては,より怖いのだ。このことを具体化したものが,運動している物体がもつ運動エネルギーだ。
 運動エネルギーはT=1/2 mv2で与えられる。単位はJ=kg(m/s)2で運動方程式から得られる単位を満たしている。しかしなぜ,1/2倍なのだろうか。三角形の面積を出す公式は底辺×高さ×1/2であった。これを用いると縦軸に運動量mvをとり,横軸に速度vをとったときの面積が運動エネルギーに相当することがわかる。しかし,実際には速度はベクトルだから,ベクトルどうしの掛け算になって,今までのように,質量や,時間を掛けるのとは同じに扱えないから,この説明はあまり意味がないと思う。
 この式をよく見ていると,1/2とv2の2が気になる。約分のような形でキャンセルできないかと,考えていると,微分の公式を思い出した。vで微分すると右辺はmvすなわち運動量になる。
 昔,数学の参考書に微分というのは微かに分かり,積分というのは分かった積もりになること,というのが書いてあった。ここもその流儀で詳しいことは抜きにしてどんどん進もう。微分と積分の関係は掛け算と割り算の関係のようなものだから,運動量p=mvをvで積分すると運動エネルギーになるということはおわかりであろう。
 「鉄人28号」が復刊されているが,気に入った方は,ぜひDVDも買って主題歌も聴いて欲しい。うしろのほうでグリコ グリコ グリコというのが入っていたらオリジナルな主題歌である。グリコのものはいかにも元気が出るようなイメージで溢れていた。なにしろグリコーゲンのグリコに鉄人28号だから元気一杯という感じでした。「エイトマン」のほうはたたしかノリタマなのだが,これは元気が出てもエネルギーは長続きしないということを象徴するかのように,エイトマンは疲れるとタバコを吸う癖があった。多分作者の習慣だと思う。この流れは後のウルトラマンの赤色ランプの点滅,ターミネーターの補助電源再稼働まで続き,子供達にエネルギーが不滅ではないことを教えた。その教えに従って,子供達は携帯やアイポッドに充電することを忘れない。しかし,最近は専用スタンドに置くということだけで,充電しているという感じがなくなった。特にUSBだけではその感じは強い。因みに鉄の平均原子量の概数は56となっていて28の2倍である。
 積分というのは,あの鉄人28号の主題歌の「ぐぅーんと飛んでくてーつじん」の「ぐぅーんと」という感じである。運動量mvを鉄人28号よろしく「ぐぅーんと」と飛ばすと運動エネルギーになるということが分かっていただけたことと思う。いや,分かった積もりになっていただけたことと思う。
  ここでもう一度,運動エネルギーを速度で微分するとはどういうことか考えてみたい。T=1/2 mv2をvで微分するのだ。ここで高校数学がよくお目に掛かった形に変形しておこう。1/2 mは定数だからまとめてaとする。これは加速度と同じ文字になったがここは単なる定数a。速度vをxに変える。ついでにTをf(x)としておこう。するとf(x)=ax2になり,よく見慣れた放物線になる。aが大きくなると中央は細くなり,右端はぐうんと上がるあの形である。そしてそれを1階xで微分するとf’(x)=2axとなり,これは放物線の接線を表す。x=0で水平線。xが大きくなるにつれて接線の傾きは大きくなった。そういう関係である。
 速度vで質量mの物体が運動しているときもつ運動エネルギーがT=1/2  mv2 ということであった。それではその速度が光速度になったらどうなるだろうか。v=cということになるから  T=1/2 mc2 で与えられることがわかる。さて,ここで困ったことになった。これは相対性理論から出てくるE=  mc2 の半分しかないということである。さあ困ったことになった。
 この両者が一致しないのはEmc2 ,特殊相対性理論からの帰結であるのに対して,運動エネルギーのほうを非相対論的に扱っているからではないか。光速に近くなるときには相対性理論を適用しなければならない。だから成りたたないのは当然である。では,捨て去るか。まてよ,これが一致するようにすることがとりもなおさず相対論の誘導ではなかろうか。とって置くべきかも。
 もうひとつ考えられることは,Emc2 は物質が消失するときに発生するエネルギーを表した物で,運動している物体のエネルギーとは関係ない,という考えである。このとき光速度の二乗はあくまで比例定数でと考えるべきである。それはともかく,光速度になっても,その物質はその物質が本来もっているエネルギーの半分までしかもつことができない。もし質量がそのままなら半分だが,質量がなくなっていたら,やはりおかしい。
 今日は好いお天気で春になったという感じを100%もった。そして春宵一刻値千金のたどがれの街を30分ほど歩いた。値二千金である。花に清香ありだが月は見えなかった。 
 
2006年3月12日日曜日
 少し暖かくなってきたので,今年最初の四国遍路をしてきました。今日は20番鶴林寺からです。鶴林寺についたのが7時15分。まずまずのスタートです。4時に起きる予定だったのですが,昨夜子供が帰ってくるのが遅れたので,寝る時間がずれ込み結局4時半に起きて,5時出発です。雨が降っていたので瀬戸大橋が風速8mだったので,少し遅れました。次に大龍寺はロープウェイです。7時50分に麓の鷲の里駅へ着いて8時出発のロープウェイに間に合いました。8時40分発の下りに乗るというのは妥当な選択です。以下番号順にお参りして太平洋の大波を見ながら室戸岬を廻って,30番の善楽寺にお参りしたときが4時半。31番竹林寺に間に合わない時間ではないのですが,次回のことを考えて,本日は30番でお開きとしました。
 
2006年3月13日月曜日
 戻り寒波というのかどうか知らないが,ブルブルである。せっかく散歩の習慣を復活させていたのに,今日はお休み。
 運動エネルギーについて書いたので,次は位置エネルギーについて復習しておきたい。・・・思えば遠くへ来たもんだ。何のためにこんなことを書いているのか,自分でもわからなくなったが,まあ,物のいきおいということで,続けるしかあるまい。
 位置エネルギーというのは簡単だ。地球の引力というのは引っ張る力であるから,力のあるところ加速度が生じる。どういう訳か,力で言わずに加速度でその引く力のことを言うのが習慣で,これを重力加速度と言って,記号ではイタリックのgで表すのだが出てこない。その値は9.8m/sである。
 mkgの物体を重力に逆らってhm持ち上げると力×距離が仕事だから,mgh Jの仕事をしたことになるので,この位置にある物体は0メートルのところまで落ちればそれだけの仕事をするので,mgh Jの位置エネルギーをもつことになる。仕事をする能力でもあるからポテンシャルエネルギーとも呼ばれる。さて,ここでこのポテンシャルエネルギーを位置を表す変数hで微分するとmgすなわち質量×加速度,すなわち力になる。すなわわち,ポテンシャルエネルギーの位置をあらわす変数で微分すると力が得られる。当たり前ではあるが。
 さて,運動エネルギーと位置エネルギーの和は常に一定でこれを力学的エネルギー保存の法則と呼ばれる。これは振り子で考えるとよくわかる。振り子が両端に行ったとき,最も高い位置に達し,そこで方向が変わるとき,速度はゼロになる。このとき位置エネルギーが最大ですべてが位置エネルギーである。そして振り子は下がりながら,スピードを増し,西下点を通過するときがスピードが最大,位置エネルギー最低すなわち0になり,全てが運動エネルギーとなる。後は,繰り返し。というように運動エネルギーと位置エネルギーを加えたものは等しいのである。
 
2006年3月14日火曜日
 今朝は雪が屋根に残っている。道路のアスファルトの上は融けている。風情があっていいのだが,メダカのことが気になる。発泡スチロールのほうは水も多くないので凍っている。暖かくなったり寒くなったりで,メダカも大変である。
 運動エネルギーと位置エネルギーの変換を落下で示してみよう。落下の距離が必要だ。復習すると,速さ×時間が距離,加速度×時間が速さということであるから,s=vt ,v=atと書く。v=atを時間tで積分すると,速度は距離の時間微分だから,左辺はs,右辺は1/2 atである。すなわち,s=1/2 at2  である。落下の場合は加速度aが重力加速度g=9.8m/sとなる。
 1kgの物体を1秒落下させると,s=1/2 at2  =1/2 gt2  =1/2×9.8 m/s×(1s)2  =4.9mとなる。そのときの速度は,v=at=gt=9.8 m/s×1s=9.8 m/sとなる。
 はじめの4.9mの高さのときの位置エネルギーはmghだから1kg×9.8m/s×4.9m=48.02kgm2/s=48.02Jで,まだ動いていないので運動エネルギーはない。これが1秒かけて4.9mを落下すると。高さは0となるので位置エネルギーは0。その時の速さは9.8 m/sだから運動エネルギーは1/2mv2=1/2×1kg×(9.8 m/s)2  =48.02kgm2/s=48.02Jで,さきほどの位置エネルギーと同じ値になり,力学的エネルギー保存の法則が成り立つ。単位のkgm2/s=Jの関係はF=maに距離をかけたものが仕事だから,明かであろう。
 仕事率というのは1秒当たりの仕事だから1J/1sで,単位はW(ワット)である。また,電力のところでおなじみのように1W=1A×1Vである。(電力=電流×電圧)。そして繰り返しになるが,1W×1s=1Jである。また,電気分解の計算でよく出てくるように1c=1A×1sである。cは電荷の単位でクーロンと読む。すなわち,電流というのは,1A=1c/1sだから1秒当たりに移動する電荷の量。すなわち電気の速さに相当することがわかる。同様に電圧は1V=1W/1A=1W×1s/1c=1J/1cとなり,電荷のもつエネルギーということになる。
 かように,ジュ-ルJという単位は力学(運動学)で出てくる力,仕事の話しと,電磁気学ででてくる電力の話しが,同じエネルギーとして結びつけられて大変わかりやすい。そしてまたそれは同じエネルギーである熱の単位でもあり,ジュールを使うと簡単に統合できる。すなわち,電圧,電流,時間さえ分かればそのときの発熱量(すべてが熱になれば),先ほどのようにジュールで与えられる。
 1ジュールというのは力学からも,電磁気学からもわかった。それでは,熱としてしの1Jにはどのようなイメージを持てばいいのか。熱はかつてはカロリーcalで学んだ人が多いと思う。1calというのは1gの水を1℃上昇させるの必要な熱量(ほんとうはもっと厳密に言わなければならないが,これで十分である)ということで,大変わかりやすい。しかし,1Jではどうか,と0.239℃しか上がらない。なぜこんな変な数値になるかというと,1cal=4.184Jという単位の換算が必要だからである。この4.184というのも,気持ちのよくない面倒な数値である。このあたりが,熱としてのジュールJの嫌われる理由である。しかし,世の中はジュールへジュールへと進んで行く。いっそうのこと温度目盛りをジュールにあわせて変えればいいと思う。例えば,1gの水が1Jで上昇する温度が1℃というように。しかし,そういうわけにもいかないので,このまま使うしかあるまい。そこで,イメージとしては1Jは1calの1/4。すなわち1gの水を1Jでは0.25℃しか上昇させないと,理解しておくのがいいのかもしれない。
 
2006年3月16日木曜日
 寒くて寒くて,地球の危機を感じております。昨日は,岩波文庫の「単子論」が届いたので,見ていたら眠くなった。「単子論」は世界の名著にもあるが,河野與一先生のものでぜひ読んでみたいと思っていたら,幸い今春の岩波文庫リクエスト復刊に上がっていたので,早速求めた次第。こういう本が簡単に手に入るということが,その国の文化というものの高さである。ただ経済的に豊かであればいい,というものでもない。それらを享受する国民の存在が不可欠なのだが,
2006年3月17日金曜日
 自分でも読み返すのが嫌になるような夢想を延々と書いてきた。世の中には理論物理学が趣味とかいうような人がゴマンといて,そのうち何人かは著名な大学の先生のところへ,「相対性理論の誤りを発見した」とかいう類のロンブンを送りつけるのだそうである。さらに困ったことには,その手のことを書いた本が学術書と同様に流通していて,よく確かめもせずに注文すると,入ってくる。超電導の本を買ったのに相対論のことが書いてあったりして,やめてくれと言いたくなりますね。読まずにほうりだしているが・・・。最近そういう人たちの気持ちが少しばかりわかるようになりました。数学は道具ですから,道具をおもちゃにして遊ぶ子供も,昔はたくさんいました。
 ということで,もう少しその変な考察を続ける。3月11日の続き。やはり,運動エネルギーが光速になったとき,E=mc2と一致しないのが気になる。運動エネルギーのmは質量として,「ある」のだが,E=mc2のときはそのmが消えたときの話しだからmは「ない」のである。だから一致させようと思うのが間違っている,ということになるのだが,でも気になるので,考えてみた。(1+v/c)倍するというのはどうだろうか。vが0か,cに比べて極めて小さいときはv/cは0で質量は変わらない。しかしvがだんだん大きくなると質量は増え,v=cすなわち,光速に等しくなったとき,(1+v/c)=2となり,質量は2倍となって運動エネルギーT=1/2 mv2=1/2 (1+v/c)mv2=mc2となってE=mc2と一致する。そしてそこで,ドロンと消えてします。
 ドロンと消えるというのは,若い人たちには理解してもらえない表現だと思う。これは猿飛佐助や霧隠才蔵の世界で,消えるときのおまじないである。左手の人差し指と中指を上に向けてくっつけて立て,残りの3本の指は握る。その立てた2本を右手で握り,人差し指と中指は軽く開く。そして忍法伝授が巻物を口に銜えて「ドロン」と言うと消えるという,最近の宇宙論以上に凄い世界なのだ。こういう世界で育った子供たちが後に,世界に冠たる科学技術立国を作りあげたのである。夢々,科学教育の成果などと思うなかれ。
 ということで,光速度に達した粒子は運動エネルギーが低速のときの2倍になり,ドロンと言って消える。するとその時持っていた運動エネルギーと同じだけのエネルギーが放出される。ほんとうに速くなると質量は大きくなるのか。光の速さになった瞬間にだけ,消えるか,わからない。光速度の話しになると,やはりアインシュタイン博士に聞いてみるしかないようである。
   桜が開花したとか,24頭目のBSE牛が見つかったとかというニュースが新幹線の電光ニュースに流れていました。大阪なんばまで行って来ました。なんばウォークという地下街まではたどり着けたのですが,目的の出口がわからなくてさまよってしまいました。親切なご婦人が,出口まで案内してくれて,あちらの方角ですよと親切に教えてくれました。途中でさらに目的地を道行く若者にも訊ねたりして,何とか時間内に目的地にたどり着きました。大阪の人はみんな親切ですね。感謝。
 心のこりは日本一のたこ焼きです。昨夏,息子がなんばへ行って,日本一のたこ焼きがあるので探したが見つからなかったと,言っていたので,よしそれならお父さんが,とはりきっていたのですが,十分サーチして行きませんでしたので残念ながら,親子共々,なみださしぐみかへりきぬ,という結末でありました。
 本日の日経MJ(マーケットジャーナル)に,書店の責任販売制といって返品率15%以下の契約本を売る制度が動き出したことを報じている。それでも,小生は今の書籍業界はおかしいと思う。もっと厳しくすべきだ。現在のめまぐるしく変わる書店の店頭や,過剰出版の出版社のようすを見ていたら,あと5年もすれば,相当数の有名出版社が廃業するような状況になると思う。返品率4割が当たり前というから,確かに改革なのであろうが,でもまだまだ生ぬるいのではないでしょうか。消費者を無視した姿勢も気になります。
2006年3月18日土曜日
 朝から雨で,やや肌寒い。しかし,季節は明らかに春である。
 妄説の上に妄説を重ねても埒があかないので,特殊相対性理論を読んでみることにする。アインシュタインの特殊相対性理論は1905年に発表され,その論文だけでほぼ完結していたので,1905年が特殊相対性理論の誕生の年ということになる。また同じ年,アインシュタインは,光電効果の理論と,ブラウン運動の理論を発表した。これらは量子論,統計物理学へ向かって大きな一歩を踏み出した画期的な業績で,アインシュタインの天才ぶりを如何無く発揮した。ということで,この年は奇跡の年と呼ばれて,昨年がちょうど百年目で物理学的なお祭りの年だったようである。何か他人事のような口吻であるが,そうなのである。流行というのが嫌いで,その年は,すなわち去年は一切相対論は読まずにおいたが,変なブームにならず落ち着いたので,今なら何か書いてもいいだろうと思う。
 その記念すべき年のイベントの一つだと思われるが,Annalen der Physikという,特殊相対性理論はもちろんのこと,アインシュタインの初期の業績の大部分が発表された学術雑誌が,別冊を出してアインシュタインの論文を復刻掲載して,オープンアクセスとしている。
 特殊相対性理論の論文はAnnalen der Physikの17巻891頁から921頁までである。最後の頁にはBern,Joni 1905 (Eingegangen 30.Juni 1905) と書かれている。
 タイトルと著者名は,Zur Elektrodynamik bewegter Körper ;von A.Einstein.書かれている。直訳すれば,運動している物体の電気力学について,ということである。いちいちこの調子で行くのは大変だから翻訳に頼るのがいいだろう。幸い,翻訳も含めて解説は多数ある。
 最初に,著者と出版社を挙げておこう。まず原論文の翻訳から。内山龍雄「特殊相対性理論」(岩波文庫),矢野健太郎「アインシュタイン」(講談社学術文庫),物理学史研究刊行会編「物理学古典論文叢書4 相対論」(上川友好訳,東海大学出版会)。
 次に参考書。内山龍雄「相対性理論入門」(岩波新書),アインシュタイン著,矢野健太郎訳「相対論の意味」(岩波書店),砂川重信「相対性理論の考え方」(岩波書店),M.ボルン著,林一訳「アインシュタインの相対性理論」(東京図書),C.メラー著,永田恒夫,伊藤大介訳「相対性理論」(みすず書房),佐藤文隆「アインシュタインが考えたこと」(岩波ジュニア新書)
   さて,特殊相対性理論は次の2つの原理から出発する。1アインシュタインの相対性原理・・・「いかなる慣性系を基準にとろうとも,すべての物理法則は全く同じである。」(岩波新書p.45) 2光速度不変の原理。これは「光の速さが光源の速度に無関係であるということ」(岩波新書p.48)である。このことはまた「どの慣性系からみても,光速は同じ値cである」(砂川重信p.29)ということである。
 例えば走っている電車の中でキャッチボールをしているとしよう。それを地上の止まっている観測者が見ると,電車の進行方向へ飛ぶボールは電車の速度とボールの速度を加え合わせたものになるし,ボールが後ろ向きに飛んでいるときは,その差がボールの速度として観察される。これは力の合成と同じように,速度というものがベクトルと考えれば,ベクトルの合成として自明である。
 しかし,光はそうならないというのだ。新幹線からどちらかの方向へ光線銃を打って,新幹線から観測しようが地上から観測しようがすべて同じだというのだ。この一定の光速度をcで表す。その大きさは3億メートル毎秒,すなわち真空中の光速度 c=3×108m/s。この値は空気中のときとか,水の中を通るときは少し異なるようだが,まあ,これで差し支えない。厳密には2.99・・となるが,これも3で差し支えない。 
 ここが我々の常識に反することだが,仕方がない。これを受け入れない人は,これから先へ行くのは諦めるしかない。では,なぜこんな変なことをアインシュタインは認めたのかというと,マイケルソンという物理学者の実験がそうなったのだ。本当はここから議論したいところだが,長くなるのでやめておく。時間のある人はどうぞゆっくりと考えて下さい。
 それでは,第1の原理に戻ろう。これはどういうことかというと,ある座標とその座標に対して等速度で運動している座標があるとき,その両方で物理法則が同じでなければならないと主張している。それが,ニュートン力学ではその一部が,成り立たず,電磁気学に対するマックスウェルの方程式では満たされているというのだ。だからニュートン力学を,マクスウェルの方程式のように第1の原理にあうように変えようというのが,アインシュタインの提案である。だから,タイトルが運動物体の電気力学についてとなっているのである。力学,電磁気学を物理学の重要な1分野と理解している現代の目から見れば,いささか奇妙に見えるのも致し方ない。
 結論から言うと,それはローレンツ変換と呼ばれる,変換式を適用すれば可能になる。しかし,この時点で,アインシュタインはローレンツ変換のことを知らなかった。ローレンツ変換は1904年にアムステルダムで発表されていたのだ。「ローレンツはマックスウェルの場の方程式に関するむずかしい議論を通じて,これとまったく同じ式を導いたのであった」(M.ボルンp.209)のに対して,アインシュタインは,2つの基本原理から導いたので,より物理学的基礎論として価値が高いのである。
 なお,さらにおもしろいことに,次のような歴史的事実もある。「今日ローレンツ変換式と呼ばれている,運動する系のあいだの変換公式は,早くも1877年にフォークトによって,光の弾性理論に基づいたある論文のなかで,うちたてられているのである。」(M.ボルンp.197) このように,異なる3つのアプローチから同じ変換式が得られたということは,ローレンツとアインシュタインはともにマイケルソンの実験に依拠しているので,完全に異なる視点とは言いかねるが,この変換式が自然の本質を示す式に他ならないということを暗に示しているように私には思われる。(がしかし,そこから導かれる結果を全て信じているわけではない。)
 さて,もう一度第1の原理に戻る。「慣性の法則は“絶対空間”に対して一様な速度で運動しているすべての準拠系に対しても成り立つ。それは自由な粒子は,このような座標系に対しても一様な併進運動をするからである。慣性の法則が成り立つような準拠系をすべて慣性系という。」(C.メラーp.1)という慣性系で,すべての物理法則が同じになるということを要求しているということになる。
 そして第2の原理を見ると,光の速度はどの座標でも同じなのだから第一の相対性原理を満たしていることになる。すなわち,これは光速を含むマクスウェルの電磁気学が相対性原理をを満たしているということである。「相対性原理を満たす法則は,ニュートンの運動方程式ではなくて,マクスウェルの方程式であることを主張しているのである」(砂川重信p.18)ということである。
 ということで,あとはローレンツ変換式を導くのにアインシュタインが考えた同時性の概念と,ローレンツ変換の意味ということになる。そして,最初の2つの原理を認めるなら,如何なる結果が出てこようとも,それを認めざるを得ない。
 アインシュタインが特殊相対性理論の論文を書いたとき,彼は大学や研究所の研究者ではなく,特許局の職員であった。すなわち,アマチュア科学者にすぎなかった。だから,今でも,相対論の別の解釈をしたとか,誤りを発見したというアマチュア科学者が多いのも,納得できると,ふと思った。ついでに言えば,Annalen という雑誌は学術雑誌と言っても差し支えはないが,やや啓蒙的な雑誌でもあり,工業学校などでも購読していたような雑誌だったらしい。そして原稿料も支払われていたから,アインシュタインの小遣いかせぎに役だっていたようである。
2006年3月19日日曜日
 福山市のみろくの里という遊園地の大観覧車に全面ガラスのゴンドラがお目見えしたと,昨日の中国新聞は伝えている。高さは50メートル。1周12分。32基のうち4基が全面教化ガラスによるシースル。値段は一人500円でで4人乗り。従来型は一人300円。50メートルの高さから真下を見るというのは凄い。恐怖の世界である。信じられないことだが,こういうのが今の世の中では受けるらしい。ゴールデンウィーク中は,待ち時間が必要かも。
 さて,早春の山を見に行って帰ったところである。昨日に続いて相対性理論について考えたい。いや,考えてはいけない。考えると妄説を披露することになるので,ここは学者先生の説を紹介するだけに留めよう。
 相対性理論の結果というのは,アインシュタインの同時性の考察を認めるということと,ローレンツ変換の意味を考えることである。その結果,どのようなことが起こるか? 岩波ジュニア新書の「アインシュタインが考えたこと」というのはいいタイトルである。特に考えたこと,といういうのがいい。考えたことだから,そうならなくてもいい。アインシュタインが,というのは他の人が考えたら別のことになるかも,という含みがあるのかないのか? ともあれ,大変わかりやすい本である。
 まずは,2ぺージ。「スピードが速くなると質量が大きくなる」。次いで7ページ。「光にちかい速さで動いていると,時間がゆっくり進む」。ここでは次のようなコメントが入る「止まっているものからみると,動いているものの時計がゆっくり進むように見えるということなのです」(p.8)ということだ。もし見なかったらどうなのだろうか。止まっているところから見るからこういうことになるのではないでしょうか。まあ,それは後で考えることにして先へ進もう。「動いているものがちじまってみえるという効果があります」(p.9)。「質量が大きくなるという効果があります」(p.10)。
  他にも,奇妙な結果が述べられているが,一般相対性理論の結果もあるので,このあたりでやめておこう。ちょっと記したように,止まっている観測者から見ての話しである。見なかったらどうなるのか。遠くの天体から極微の病原菌まで,近くのものから地球の隅々まで,何でも見てやろうというのが,近代人の悪癖である。見ずに考えるということの尊さを忘れ去って自然科学が発展してきた。
 さて,ならば,光速に近い速度で運動する物体を止まった場所で見るとはどういうことだろうか。例えば猫が光速で飛ぶとしよう。トトロに出てくる猫バスのような格好で,地球を廻る。光は1秒間に地球を7廻り半するということは,小学生でも知っている。ということは1秒間に猫が6回通過する。さあ,あなたなら,3回目と4回目の区別がつくだろうか。あるいは猫の身体が小さくなっているのが見えるだろうか。あるいは体重はどうやって量るのか。猫にヘルスメーターを抱かせて,地球の周りを光の速さで飛ばすとしよう。さあ,ヘルスメーターの目盛りがあなたには読めるか?
 光の速さの半分にしてもいい。それでも,ヘルスメーターを抱いた猫はあなたの前を1秒間に2回通過する。始めのを入れると3回だ。2回目と3回目の区別がつくだろうか。ヘルスメーターが読めるだろうか。
 見えないものを見るというのが,特殊相対性理論の考え方である。しかし,論理的には大変美しい。では,論理的とはどういうことか。少し復習しておく。
 最近,大学入試の受験生は問題を1番から解くという。やさしい問題から解くというようなことをしない。なぜか,論理的に考えてみたい。問題をさっと見て,どれがやさしいかわかるほどの受験生はどれも解ける。だから,どこから解いても同じことなので,1番からやる。残りの受験生は,どれがやさしいのかわからないので,やはり1番からやる。かくして,問題は1番からやるのが当然である。
 こういうのを論理的思考という。もう一つ。「いい本を読みなさい」という。こういうのが一番困る。なぜか。本は読んでみないと,いい本か悪い本かわからない。前後が逆さまなのだ。論理的というのはこういうことだ。そして特殊相対性理論は論理的に大変よくできている。
 猫が光速で飛ぶことはないから,いいとしても,高エネルギー加速器で行われる,素粒子の質量など,どうやって測っているのだろうか。そんなまさか,電子天秤を一緒に廻したり,あるいは電子天秤にぶっつけたりする訳ないし。結論からいうと,測ってないのだと思う。計算しているだけだと思う。紙と鉛筆で。いや最近ではコンピューターが。オーダーが10の-31乗キログラムなんていう秤は,世界中探してもないだろうから,計算しかない。
 再度書く。光速度で,あるいはそれに近い値で運動する物を止まっているところから,見ようとするから,変なことになるのであって,見なかったらどうなっているのでしょうか。
 ということで,特殊相対性理論は物理学の研究には役に立っていることと思うが,タイムマシンを造るのには役にたたないように思う。やはり,最後は妄説になった。妄説の部分と,権威ある出版社から発行されている書籍の記述の部分が区別つければ,それで結構です。
 今日も寒い日であった。「早稲田文学」が無料配布になったようである。ならば,更に進めて電子化し,オープンアクセスにしたらどうだろうか。そして広告収入を稼げばいい。学術の世界では急激に状況は変わりつつあり,日増しにオープンアクセスが増えている。ただ,異なるのは文芸誌の場合は,後に単行本にして売るという要素もあるということであろうか。 
 
2006年3月20日月曜日
 さて,次は一般相対性理論へ入りたいが,多くの入門書は特殊相対性理論で止まっている。それはそうだろう。特殊の入門書,それから,特殊の専門書へと行くのが本来の道筋であろう。そして読者は半減する。いや10%以下に減る。(調べたことはないが,多分当たっていると思う)
 それはともかく,宇宙論やひも理論というのに行くためには一般相対性理論は避けて通れないので,妄説を展開するよりも,えらい先生の説を紹介しておくほうがいいと考える。
 さて,一般相対性理論というのは,特殊相対性理論で要請された第1の原理,アインシュタインの相対性原理・・・「いかなる慣性系を基準にとろうとも,すべての物理法則は全く同じである。」(岩波新書p.45) の慣性系というのを,「いかなる座標系」に変更したものである。すなわち,慣性系というのは,他の座標に対して等速度運動をしている系のことであるから,速さが変わったり曲がったりした座標系では,特殊相対性理論は成り立たない。だから,それをさらに,普遍的にするために,互いに加速度運動をしている座標系でも,すべての物理法則が同じになるようにしたもだということができる。これをアインシュタインの一般相対性原理という。
 そして,もう一つ,今まで書いてこなかったが,重力については特殊相対性理論は扱うことができなかったが,重力についても扱うことが可能にした理論だということができる。
 よく使われる例としてひもの切れたエレベーターというのがある。地上が一つの座標系。エレベーターは重力加速度によってどんどんスピードを増しながら落下するので,地上から見れば,慣性系ではない。しかし,一般相対性理論は,同じ物理現象を,エレベーターの中で観測しようと,地上で観測しようと同じでならないといけないと主張する,考えてみれば,もの凄い理論だ。
 同じ物理現象としては,エレベーターの中でボールを手から離せばよい。エレベーターの中は幸い壁に囲まれていて外は見えない。ボールは目の前に止まっている。すなわち空中に浮いている。しかし,地上の観測者から見ると,(なぜか,この人は透視力があって,ボールが見えるのだ),ボールは落下の法則に従って落下している。この静止しているボールと落下しているボールを同じ式で記述しようというのだから,凄いし,それ以上つきあわないほうが健康のためにはよいかも知れぬ。
 ということで,そう思われる方はしばらくお休みいただいて,桜の花が咲く頃また,お越しください。
 さて,次は等価原理である。等価原理というのは慣性力と重力を等しいとみなす,アインシュタインが導入した原理である。ちょうど光速度不変の原理のように。
 元々同じだと思っている人は,なぜこれをことさらここで等価原理などというのか理解し難いだろう。多分そのような誤解の一つは,慣性質量とも呼ばれるわれわれの体重が,重力をもとにして測定されるからだろう。そこから思考を少し離して,冷静に慣性力という聞き慣れない言葉を想像してみよう。電車の急発進だ。あるいは急停車だ。横に働く力である。重力は縦に働く力である。それも下に。
 そのようなよく似ているようで,異なる物を,アインシュタインは同等とみなすのだ。いや違うものだから,同等ではない。等価なのだ。佐藤文隆教授の絶妙な語り口を借りよう。「重力もなにもない宇宙空間にいって,乗っている箱をロケットでググッと加速度をつけてひっぱってもらったとします。そうすると,ちょうど列車が動くときのようにグッとうしろに押されるような力をすべてのものが感じるのです。」「箱の中の人にとっては,この慣性力はまったく重力と区別がつかないはずです。」そして宇宙ステーションが廻っていることを示し,「重力というのは,そういう加速度運動,速度の変化する運動をする座標系にいけば,ひとりでにあらわれてくるのです。」(ジュニア新書p.98)というわけである。
 要するに早い者勝ち。コロンブスの卵。利根川進さんが言うように,「他人よりも早く発表しなければならない」ということのようです。
 引用ばかりで恐縮ですが,妄説を並べるよりはいいと思いますので,ついでに。「アインシュタインは,そういう加速度運動をする座標系のとり方で,重力はいつでも消すことができる,無重力状態にすることができることに気づきました。そうして彼は無重力にした座標系において,物理学の法則はすべて同じである,と考えました。」(岩波ジュニア新書p.98)
 しかし,やはり元々同じだと思っている人も,あながち間違っていないようだ。「ロシアの科学者の中には等価原理を『すべての物体の重力質量はその慣性質量に等しい』という主張であるといっている人もいる。」(岩波新書p.133)ということである。同じことではないかという人のために記すと,慣性質量というのはF=maから求まる質量。一方重力質量というのは万有引力から求まる質量のこと。
 さて,ここまでならば,止まっているボールと落下しているボールは,異なったままだ。止まっているほうを眺める。なぜエレベーターの中ではボールは止まっているのか。それはボールに加わる上向きと下向きの二つの力が釣り合っているからである。では,下向きの力は何かというと,重力である。これは地上から見ていても同じである。では,エレベーターの中にだけある上向きの力とは何か?という大問題が生じる。この力は,地上では絶対にあってはならない力である。
 それは,そのボールの周辺だけを無重力にする力である。そして,その力を消すという変換をおこうなうことができれば,やはりエレベーターの中のボールは落下していることになるので,地上と同じように見えることになる。
 ということであるから,上向きに働く,実質のない力に実体を与え,それをさらに消すということが必要になる。そのトリックが重力を見かけ上の力とみなすことである。すると加速度運動しているエレベーターは等速運動をしていることになる。すなわち,非慣性系であるエレベーターを一端慣性系に戻して,特殊相対性理論が適用できるようにしたのだ。
 そこで登場するのが等価原理である。「アインシュタインは,一般相対性原理を実質的に有効にする指導原理としての等価原理を,次のように表現した。等価原理 時空内の任意の点をかこむ無限小領域ではいかなる重力をも消し去ることができ,そこでは特殊相対論の法則が成立する。」(砂川重信p.93)
  自分でもよくわからないから,読者の方にも多分納得してもらえないのではないかと思う。もう一度整理してみる。すべての加速度系で,すべての物理法則が成り立つようにしたい,というのが一般相対性理論の目的であり,第1の原理。加速度系と静止系を一致させるようにするのではなく,まず,成立している特殊相対性理論でたどりついた,慣性系と加速度系を一致させるようにする。そのために等価原理を使う。
 同じことをもう一度書く。加速度系と慣性系とで物理法則が一致するような理論を作る。慣性系と静止系は特殊相対性理論で一致させることに成功しているので,結果として,加速度系と静止系で物理法則が一致したことになる。これが一般相対性理論の目標であり,結果である。
 加速度系と慣性系で物理法則が一致させるために等価原理を要請する。すなわち,加速度を起こす,重力と慣性力を等価とみなす。一時的に重力を消せば,加速度系の法則は慣性系の法則として考えることができる。
 どうやれば,そんな変なことが成立するのか? そうではなくて,どうやれば,そんな変なことが成立する理論が作れるか? とアインシュタインは考えた。それが,現在知られている一般相対性理論ということになる。
 原因と結果,結果と目的が同じになったり離れたりで,実にやっかいな話しだと思う。ひも理論という目標がなければ,とっくに特殊相対性理論でとめて,タイムマシンだの宇宙旅行だの,と言っていたほうが楽しいかもしれない。
2006年3月21日火曜日春分の日
 それではなぜ等価原理を使えば,加速度系が慣性系になるのか。なぜといっても目的と方法がある。目的のなぜについては,昨日述べた。特殊相対性理論が使えるようにするためだ。
 方法について考えてみよう。どうすれば,加速度系を慣性系と見なせるのか? すでに始めの設定で慣性系になっているではないか。もう一度,ロープの切れたエレベーターの中でボールを離していることを考える。地上から見れば,エレベーターが加速度系,ボールは(見えたとしたら落下運動),しかしエレベーターの中から外が見えないとすると,中の人とボールが見えるだけ。ボールは中の人から見ると浮いている。止まっている。すなわち慣性運動をしている。要するにエレベーターの中の人にとっては落下しているエレベーターの中は慣性系なのだ。
 落下している,すなわち加速度運動している物体の運動を記述するとき,無重力状態を作って記述すると,それは慣性運動となる。そしてそこは慣性系になっていると考える。ボールがなぜ無重力になれたかというと,観測者とエレベーターが重力に従って,すなわち万有引力にしたがって,落下したからである。すなわち,観測者とその系を無重力にする力は万有引力すなわち重力であった。
 無重力の宇宙で重力を与えるには,既に述べたように,加速度運動すればよい。このことを慣性力と呼んだ。だから,重力と慣性力は同じことができる。これを等価だという・
 無重力を作るのは重力なのだから,慣性力も無重力を作ることができる。だから,等価原理によって,すなわち,重力(万有引力)でも,慣性力でも,無重力をつくることができる。すなわち,慣性系をつくることができる。慣性系をつくることができれば,特殊相対性理論を使うことができる。よって加速度系も慣性系とみなせるようになったら,加速度系も含めて,すべての物理法則が同じ形になるように記述できる,ということになる。
 納得していただけましたでしょうか?
 
2006年3月22日水曜日
 昨日は,6時半に家を出て,高知へ行ってきた。88ヶ寺巡りの3回目である。3回目といっても数え方が複雑だ。まず,88ヶ寺をすべて廻って,高野山へも行って1周目は終わり。昨秋2周目を始めて,その1回で,18番から19番。今年になって,2回目の20番から30番,3回目の31番から36番が昨日。ということで,2周目の,3回目で,今年になってからでは,2回目ということ。
 次回を,37番岩本寺からに予定しているので,今回はスローにまわります。7時にスタートする予定はありませんので,家をでるのも気儘です。
 8時半頃,五台山の竹林寺から。牧野植物園の入り口にあるお寺である。高速道路で高知インターで降りて,五台山を目指す。高知新港に向かう南向きの道路。トンネルの手前で右折したほうが速い。一つトンネルを通って五台山の南に行ってしまったので右折してやや戻り西側の登山口に至る。古刹ですから,お寺のことを書けばきりがありませんので,省略。
 次は32番禅師峯寺。ここは道しるべに従わず,再びもとのトンネルのある道路に戻って,高知女子大を過ぎて次のトンネルを出て左折すると,山頂にアンテナのようなものが2本見える山が見えているので,そこを目指して東進すると,案内板があるので,迷うことなく行ける。禅師峯寺の境内からの眺めは素晴らしくベンチに座ってしばらく休憩です。眼下にビニールハウスの畑とその先に太平洋。右のほうに見えるのが桂浜。台風が来たら大変だと思うが絶景です。
 次は浦戸大橋を通って西へ。ここで寄り道をして桂浜公園へ。引き返して西へ海岸通りを走って案内に従って走れば,33番雪蹊寺。ここは小さな川を越えて右へ330°くらい方向転換して行くのが特徴です。34番種間寺へは,案内板に従って行けば簡単です。仁淀川から引かれた水路沿いに進み,仁淀川の支流を渡るとあります。ここでは,5円玉で家紋を作るおじさんがいます。話しをしきました。春と秋の期間限定だそうです。それから,展示品の中になければ注文して送ってもらうことも可能だそうです。
 35番清滝寺は高知道より北側です。仁淀川を渡ってまもなく,左方向へ行けば青龍寺という案内があります。清滝寺の次はここまで戻るので,確認しておきましょう。清滝寺へ行くには,案内板に従えばいいのですが,見失ったら,土佐インター目指して進めば,また案内板が出ます。高知道の下を通ってから道が狭くなります。ブンタン畑の急な坂で出会うとバックしないといけません。運転に自信がない人は,四国道したに車を置いておくのもいいでしょう。上の上の境内まで車で行けます。それから,行きも帰りも,土佐市街地に入らないようにすることが肝心です。
 36番青龍寺へは,土佐市街地を右手に見ながら戻ります。そして右折。少し戻りすぎて仁淀川の橋が見えてきたので,右方面宇佐の標識があったので右折。宇佐大橋というのを渡りますから,宇佐方向でいいのです。こちらの道は古い道で,前回通ったほうが新しい道だと,途中で寄った食堂のおじさんに教えていただきましたが,この道もよくわかります。真っ直ぐ行くと海に出て,帰りはこの海岸沿いに高知市へ戻ることにしました。それはともかく,海岸へ出たら右折して,宇佐大橋を目指す。
 1周目の時は,高知市に泊まり,翌朝7時に,ここからスタートしましたが,今回はこれで終わりです。前のときは,36番青龍寺を出て,右折して,半島を南西から廻りました。景色は素晴らしいが時間がかかりますので,お急ぎの場合は,宇佐大橋まで戻ったほうがいいのではないかと思いました。その後のルートは未経験。今回はこれで終わりですので,仁淀川の最も川下の橋を渡って桂浜方面に戻ることにしました。右手に太平洋。右手前方に霞んで見える山並みは南国市の向こう,剣山に連なる山々かと思われます。気温18℃。高知はいいところだと,いつ来ても思います。
 目指すは高知城。桂浜まで行かず,手前ではりまや橋方面の指示にしたがって100円の有料道路を通って高知市街へ。朝市をしている通りへ来たら,高知城駐車城へ。まず山内一豊の銅像があります。県立図書館の入り口の少し南側です。一豊の妻の銅像は階段を少し上がったところです。その前に板垣退助といって,昔では100円冊の人,「板垣死すとも自由は死せず」で有名な,自由民権運動を起こした人の銅像があります。「板垣死すとも自由は死せず」というのは,本人が言ったのではなく,別の人の講演の題名という説もある。
  一豊の妻千代夫人の銅像は,有名な伝説に因む大きな馬と並んで立っています。高知名物のアイスクリンを食べながらゆっくりと眺めてから,天守閣へ。・・ということで,今回は珍しくのんびりムードの四国巡礼でございました。内藤湖南も「近畿地方における神社」という講演で「まァ半分は遊覧のためである。もっとも遊覧から信仰が起こったらなおさら結構でありますが」(日本の名著41,p52)と述べております。洋の東西を問わず,時代の今昔を問わず,そうだと思います。
   高知城の天守閣から下を見ると目が回るようで,慌てて引っ込みました。外を回れるのですが,とても,とても・・・。それにしても急な瓦。高知は台風もよくくるし,雨も多いので,維持するだけでも大変だと思います。あの屋根の先に行って瓦をなおしたりする人というのは凄い能力だと思います。野球でも,高速の玉が目の前を通り過ぎるのですから,やはりそれだけでも並の能力ではありませんね。そんな能力はありませんから,本を読んで過ごすのがいいところです。それも,倦まずたゆまず,ではなく,好きなところを適当に,といった案配です。難しければ飛ばすし・・・・。
  さて,一般相対性理論の枠組みがわかりましたが,次はそれを数学的に変換するようにもっていくことです。途中から,特殊相対性理論に頼るわけですから,共通の言葉で変換するのが有利であることは,言うまでもありません。特殊と一般の関係は,蜜柑の木にレモンを接ぎ木するような感じでないと困ります。蜜柑の木にバラを接ぎ木するような形では大変です。さらに言葉にたとえれば,同じ印欧語族とか,あるいはロマンス語どうしのように,よく似たものにしておく必要があります。
 数学というのは,ある意味では変換をしているようなものです。あの等号=の意味する等しい(equal)というのは同じという意味ではなくて,値が等しいとか,匹敵するという意味です。すなわちこの前出てきた等価という意味です。しかし,a+b=cをa+bとcの値が等しいというのはもちろんですが,aとbの2つのものを一つにした,あるいはひとつのcを二つにしたと考えることもできます。
 
2006年3月23日木曜日
 さてここまで読んできてくれた読者なら,アインシュタインの次のような宣言も素直に受け入れることができると思う。
 「自然の一般法則は,すべての座標系に対して成立する,すなわちすべての座標変換に対して共変な方程式で表されるべきである。」(学術文庫p.303)
 共変という用語がでてきた。「法則の形が座標変換によって変わらないことを,その法則が共変的であるという。」(砂川重信p.40)ということである。
 このような一般化が行われるには,一般相対性理論が特殊相対性理論の発展であるから,特殊相対性理論のほうも一般化される必要があった。その特殊相対性理論の一般化は,アインシュタインの大学時代の数学の教師ミンコフスキーによって4次元の時空という形に拡張された。
 ミンコフスキーの4次元幾何学を,単なる特殊相対性理論の解釈だと侮ってはならない。一般相対性理論へ進むための一里塚であったのだ。
 ということで,いよいよ「共変な方程式」の探究に向かう。しかし,その数学的説明は,私のよく行うところではないので,このへんでやめておきたい。
 
2006年3月24日金曜日
 一般相対性理論については,そろそろ終わりにしようと思ったが,現代の宇宙論の根底には必ず一般相対性理論理論があるので,もう少し記しておこう。
 一般相対性理論は重力の理論である。宇宙を理解するのには重力の理解が不可欠であるから一般相対性理論の結論は宇宙観を変えた。
 閉じた宇宙とか,空間が曲がっているとか,ブラックホールなどもある。いずれも光が重力によって曲がることによる。
 光が曲がるということは奇妙なことだが,当然の要請だと思えばいい。閉じたエレベーターの中で懐中電灯を照らす。エレベーターのロープが切れて落下している。地上から見れば光も一緒に落下している。エレベーターの中では,光は真っ直ぐに進む。上に残されていたらおかしい。地上とエレベーターの中を座標と考えれば,如何なる座標でも,運動は同じように記述されないといけないから,これらの現象は同じなのだ。そして,光は重力によって曲がることになる。
 光が重力によって曲がるのなら,こちらのA地点から,かなり離れた向こうのB地点の間の左のほうに強い重力をもつ天体があったら,光はABの直線距離を通らずに少し曲がってBに到達する。速さ×時間=距離でなくなる。ということは空間が曲がっているということである。
 この重力をわれわれの住む宇宙の重力として,それがかなり強いとすると,光はまっすぐ進んでいくが,この宇宙から出た段階で,宇宙の重力によって曲げられる。そしてもし戻ってくるほど強い重力をもっているのだとしたら,反対側から戻ってくるだろう。すなわち,この宇宙は閉じた宇宙だということになる。地球を周わる飛行機のようなものだと思えばいい。
 今度は,同じように重力の強い天体があって,光を外に出せないほど強い重力をもっていれば,それがブラックホールというわけだ。ロケットでもある速さ以上でないと地球から出ていけない。落ちてくる。これを宇宙速度という。まずくるくる地球を回るためには毎秒7.9km以上でないといけない。これが第1宇宙速度。今度は地球から離れていくには毎秒11.2km以上になる必要がある。これが第2宇宙速度。さらに太陽系を脱出するには毎秒16.7km。これが第3宇宙速度。実際にはこれに地球の公転速度を加えて,秒速42.11kmをもつ位置での話しとなる。ブラックホールの重力と光の速さとの関係が宇宙速度のような関係で,光の速度がそれ以下であれば,逆にいえば重力が大きければ,光は出てこれなくなる。光より速いものはないということなので,他の物が出てくることも当然ありえない。 
 光が曲がるというのは,有名な1919年の日食の観測で確かめられているので間違いはない。ブラックホールも白鳥座にあるというし,天体物理学や宇宙論はますます一般相対性理論の重要性を証明している。
 
2006年3月25日土曜日
 一般相対性理論によって慣性系というものを否定し,特殊相対性理論によって絶対座標というものが,否定されたのだといわれております。
 慣性系というのは,慣性の法則が成り立つ座標系のことだというのは,前に紹介したとおりですが,ゴールドスタイン(名前の上ではアインシュタインよりはるかに上ですね)の「古典力学」では次のように書かれております。「慣性系inertial systemというのはその系においてNewtonの運動方程式F=maが成り立つような系である。」(野間進,瀬川富士訳,吉岡書店p.217) 
 驚く必要はありません。ニュートンの運動方程式は,加速度の意味を表しますが,また,力がはたらかないときは加速度は0だと示しているのだから,慣性の法則をも示しているという訳です。以前にも書きましたが。
 その慣性系の追放,あるいは死刑宣言がアインシュタインによって「相対論の意味」に述べられております。矢野健太郎さん訳です。「一般相対性理論の本質的な成功は,それが,物理学を,“惰性系”の導入から解放したことにある。この惰性系という考えは,以下の理由から不満足なものである。それは,何等の深い根拠もなしに,考えうるすべての座標系から,ある種の座標系を特別にえらび出す。そして物理学の法則は,このような惰性系に対してのみ成立すると仮定する。したがって,このような空間には,物理学の体系において,それを他のすべての物理学的叙述の要素から区別するような役割が与えられている。それはすべての過程において一つの決定的な役割を演じ,他に影響されることはない。このような理論は,論理的には可能であるが,他方,それは不満足なものである。」(p.148)
 同じ岩波書店からは,アインシュタイン,インフェルト著,石原純訳「物理学はいかに創られたか」という本が岩波新書から出ています。どれくらいの大学生や高校生が読まれるのか知りませんが,先日も,新しいカバーをつけて装いもあたらしいのが店頭にありましたから,今でも売れているのでしょう。昭和47年に買ったと記録のあるその本を久しぶりに取りだしてみると,「最も根本的な問題の一つがまだそのままにされていたのでした。しれは,慣性系なるものがそもそもどこに存在するか,ということです。」(下巻p77)なかなか手厳しく,目の敵かのように慣性系を攻撃していきます。 
 ちょっと待ってください。慣性系というのは,特殊相対性理論の屋台骨の一つだったではありませんか。そんな大切なものを,かくも過激に排斥しようとする。アインシュタインという人はそういう人だったのです。自分で完成させた理論を否定することによってより大きな理論を創るという例だと思います。
 アインシュタインは特殊相対性理論によって電磁気学の理論を完成させたわけです。そして,その年に,光電効果という粒子説を出して,波動論として完成させたものを壊していくという,凄い男だということを,砂川重信さんが「相対性理論の考え方」(p.18)で書かれております。まだ,読まれていない方は是非読んで,アインシュタインの創造と破壊の精神を感得されんことを。
 
2006年3月26日日曜日
 昨日の陽気が嘘のように,今日は曇って肌寒いのでストーブを入れております。昨日はポカポカ陽気の中を四国遍路へ行ってきました。結論から書くと,第37番岩本寺から第44番大宝寺までです。
 今回は足摺岬をまわる最大の難所です。車でまわるにしても大変です。一泊したいところだが,一泊するとなると家族の日程を調整しないといけないし,大変だから,思いついた日が吉日と,出かけてきました。
 第37番岩本寺:3時45分に家を出て,高知道を終点の須崎東でおり,国道56号線を走って四万十町(かつては高岡郡窪川町だった)の岩本寺に着いたのが6時45分。早く着いたら仮眠するつもりだったのに,ちょうどいい時間だったので,すぐにお参り。本堂で般若心経を読経していると,本堂のうしろを列車が走るという珍しいお寺。ご本尊がたくさんあるのも珍しい。
 ここから車でで20分ほど行ったところに大正町がある。沼隈町のパラグアイ移住に刺激されて,ここからも町ぐるみ移住が行われた。パラグアイフラム地区に大正町の人たちが来られて,沼隈移住団は大変喜んだ。現在大豆がパラグアイの輸出品で有名だが,この輸出に対して日本政府に働きかけて,道筋をつけたのが,大正町移住団の団長であった山脇敏麿氏であった。その大正町も,沼隈町に遅れること1年,2006年3月20日に,窪川町,十和村と合併して四万十町になった。これで,昭和30年代の町ぐるみ移住として全国にその名を知られた,広島県沼隈町,高知県大正町は,行政単位としては,ともに平成の大合併で,なくなった。
 第38番金剛福寺:いよいよ次は足摺岬。足摺岬へ行くには土佐清水市から三方のルートがある。昨年は中央のスカイラインで行き,西側を帰った。今回は,行きも帰りも西側を行くことにした。ジョンマンロードの西側は途中一車線となり崖の上を走る。絶景であるが,油断はできない。
 2時間ほどで,金剛福寺に着くと,鶯が頭上で大きな鳴き声で迎えてくれる。帰りは海もよく見える。中ノ浜というのが,中浜万次郎の生誕地。次は宿毛。昨年は西側をずっと走って,海岸通りを満喫したが,中村市(ここも合併して四万十市という名前になっている)へ帰ったほうがいいと判断。四万十川を見ながら戻る。膨大な汽水域だ。川底には,アマゾンほどではないにしても,珍しい生物が棲息しているような感じ。大鰻とか,淡水エイとか。
 第39番延光寺:一路,宿毛市へ。四万十宿毛道路というのがあって,これを利用すればよかったと後でわかった。四万十市から国道56号線を宿毛方面へ向かうと,案内板が出る。帰りは宿毛市街には入らずに,宇和島方面へ。そして県境を越えて昼前に愛媛県に。
 第40番観自在寺:愛媛県に入って最初のお寺。国道56号線を南宇和郡御荘町に入って,案内板が出たら右折。信号の向こうに小さな路地。その先にお寺が見える。この路地を真っ直ぐ行くと駐車場。
 第41番龍光寺,第42番仏木寺は同じ方向を目指す。宇和島市周辺。宇和島を目指して北上。途中,バイパスとの分岐点では,右折して宇和島市街へ。市街地を国道56号線を松山方面へ何度も直角に曲がって進むと,やっと案内板。東側の山向こうへ出る。順序通りすすみ,戻って道端に仏木寺。藁葺きの鐘楼は珍しい。
 第43番明石寺:仏木寺からまっすぐ北を目指して,山越え。かなり高い山だが,これを越えるのが最も近いので越えるしかない。そして,宇和島道路の西予宇和インター近くにでるが,ひたすら案内板が出るまで直進して,あとは案内板通り。ここで,午後三時。一応本日の目的は終わり。
 次は久万高原町。こちらは,松山から国道33号線で30分ほどのところだから,次回にまわしてもよい。しかし,次の2つを回っておくと,後が楽だ。二時間で行けるか? 場所が離れすぎている。車で行くとしたら,宇和島道で内子まで行き,そこから山越えになる。意を決して行くことに。
 内子インターで降り,目指すは久万高原町。まずは国道379線。(途中で380号線になる。)簡単に入れた。しかしすぐに山道。途中,内子町大瀬という大江健三郎さんの故郷の辺を通って,どんどん道は登って行く。何しろ高原町へ行くのだから,登るのは当たり前。目の前に聳える山。これを越えるのかと不安になるが,幸い直前を地元の方が猛スピードで進んで行く。最後はトンネルを通って久万高原町に出て,一安心。落合というところで,380号線は国道33号線に出会う。しかし,右,岩屋寺,左,大宝寺と案内が出たとき,自分の位置がわからなくなった。岩屋寺も大宝寺も特色あるお寺で,近くまで来れば迷うことはない。しかし両方の位置関係を逆に覚えていたのが原因だということに後で気づいた。この案内ではどちらに行っても行けることになるが,かつて通った道に出てこないので,引き返す。それでも出てこないので,益々不安になって,何度も地元の人に,といってもかなり走って尋ねる。かなりの時間の無駄であった。ということで,結局第44番大宝寺でタイムアウト。
 多くの人は,このように379,380号と内子から来て,落合の三叉路で右折し国道33号を高知方面へ行き,「道の駅みかわ」を過ぎて左折,さらに右面河渓,左松山と出たら左折して岩屋寺へ行き,そして松山方面を目指して,トンネルを通って大宝寺へ行くのだそうである。やはり,宇和島から2時間で,44番45番を回るのは難しい。
 昔,松山から高知まで定期バスで行ったことがあります。随分山の中でしたが,今思うと,このあたりを通ったのだと思います。
 ということで,やっと半分が終わった。残りは気の向いた時に日帰りで行けるから,少し楽になった。やはり,室戸,足摺は意を決して行かないと,なかなか行けない。次は岩屋寺から。去年は,大宝寺を7時にスタートして岩屋寺でかなり時間がかかり,砥部,松山市街を抜けたのだ昼頃だったから,もし岩屋寺を七時にスタートすれば,かなり楽ではないかと思っている。
 今回で最も印象に残ったコース。内子から久万高原町への山道。そしてその次が岩屋寺をとりまく回り道。四国の山の中には家がたくさんあって感心します。やはり,林業があったからなのでしょうか。それに畑もいろんなところにかなりありました。 
 
2006年3月27日月曜日
 暖かくなった。すっかり春である。とはいえこのあたりでは桜はまだだ。土曜日の高知は満開。宇和島が三部咲き程度だったのに比べるとやはり四国より遅い。
 一般相対性理論は奥が深くてなかなか終わりそうにない。今日は光の速度について考える。光が重力によって曲がる。直線ABを考える。その間に直線AB上にない点Cを考える。さらに直線ABから離れた点Dを考える。Aから出た光がACBあるいはADBと進んでこちらのBに到達したとすると,それは重力によって曲げられたとする。この場合,点Cよりも点Dのほうが,重力は強いことは明かである。
 さて,光の速さとは何だろうか? AB間の距離を,AB間を通過する時間で割ったものだろうか。それとも,ACBあるいはADBの上を進んでいるときの瞬間の速さのことであろうか。
 実は,こういう問いそのものが意味がないのである。なぜならば,こういう問いがあるところが非粗相対論的な考え方である。一般相対性理論においては,どこで見ようとも同じ形で物理法則は表されないといけないので,結局AB間の光の移動は同じ時間に起こることになる。ということはABよりも,ACB,さらにADBと光が通るときのほうが,光の速さは大きくなっていることになる。すなわち,重力が大きいと,光の速さは大きくなるのである。
 
2006年3月28日火曜日
 春の嵐,と呼ぶのだろうか。風が舞い,雨も降った。そして寒くなった。極端である。気候は社会の予兆でもある。そんなことは書いてもしかたがないので,やめておこう。
 神秘的な相対論の中でも,最もわかりにくいのが時間の問題である。特殊相対性理論の場合は,信号が光の速さで伝わるので,時間も光の速さでしか確認できない。絶対的な時間など知ろうとしても無駄だということで,片方から見ている時間は遅れて見える,ということはわかる。
 一般相対性理論でも,信じがたいことだが,重力によって遅れる。「時計は,もし重力質量の近くにおかれればよりゆっくり進む。」(学術文庫p.372)と,アインシュタインも言う。また,「これから大きな星の表面からわれわれに達する光のスペクトル線はスペクトルの赤の端の方へ変位してみえることがわかる」とも言う。
 光の振動数とは,1秒間に振動する回数のことである。分母が大きくなれば,同じ光でも振動数が小さくなる。すなわち,赤の方へ寄るということである。
 
2006年3月29日水曜日
 朝は昨日とうってかわって春らしいいいお天気だと思っていたのに,夕方からまた寒くなりました。
 一般相対性理論は,やはりとんでもない理論で,なかなかなじめません。特に重力によって空間が曲がっているというところが,困ります。曲がった空間をどう表すのか,高校の数学では習ってないですから。
 その一つに測地線というのがあります。geodesicというのですが,測地学geodesyそのものに馴染みがなければ,どうしょうもありません。測地学というのは測量の方法についての学問だと思えばいいのでしょう。それに由来する名前ですね。要するに曲がった地面で地面べったりに測って,ある地点と別のある地点間の長さのことですね。といってもどこをとるかによって違ってきますから,その最小のものというわけです。
 球面の上では,逆方向にもとれますから,大きな弧と小さな弧があるわけですね。その小さな弧の最小の長さと思えばよろしい。ですから,AB間の距離などと言わずに,AB間の測地線の長さ
 
2006年3月30日木曜日
 弥生三月も余すところ二日。夜来風雨の音ではないが,風の音が夜の闇の中を走っていた。雨も明け方少し降った。
 さて,測地線というもののイメージをより確かなものにしようと思ったら,座標を用いて距離を表す方法を示すしかあるまい。二点PQの距離は簡単に表すことができる。
 すなわち,PQ間のx座標の差をx,y座標の差をyとすると,PQの距離rはr= x+ yとなるのは,ピタゴラスの定理からわかります。ただし,これはこの座標が直角座標の場合です。直角でない場合の補正項を加えて,おきましょう。r2  = x2  + y2  + Cxy としておきましょう。x座標,y座標が直角のときは0になりますから,Cはcosθのようなものだと考えてもいいでしょう。
  さてここまでは,x座標,y座標の目盛りが等間隔の場合での話しです。x座標の1目盛りがy座標より2倍だけ大きかったら当然x2  の代わりに(2x)2がきます。同様に,x座標,y座標の目盛りがm:nだったら, r2 =m2 x2 + n2y2 + Cxy   と書けます。これを簡単のために,r2  = A x2  +  By2  + Cxy と書いておきましょう。すなわち,座標が直角でもなく,また座標間の間隔が等しくもない,任意の座標でもこの式は通用するわけです。
 つまり,曲がった面でも任意の座標をとり,r2 = A x2  +  By2  + Cxy のようにすれば,2点間の距離が求まります。しかし,歪んだ面ではABCが場所場所で異なりますから,極めて狭い領域での話しだということになります。でも。いくら狭い領域でも加え合わせれば,何とかなります。すなわち,このようなものを,加え合わせてやれば,測地線を計算できるというわけです。ただし,その場所場所でのABCが定まればのことですが。 
2006年3月31日金曜日
 いよいよ3月も今日で終わりです。毎日寒いですね。結局,夕凪亭のある地方では桜は例年並みということでしょうか。
 さて,曲がった面で長さを求めるには,r= A x+  By2  + Cxy を使えばよいということでした。
 ここで,少し話題を変えて,ゴム板を曲げることを考えよう。版画に使うような厚さが5ミリかそれ以上,40センチ平方くらいのものの両側をもつ。真横でなく,ちょっと上下の位置を左右でずらしてから折り曲げてみよう。すなわちどの4辺も互いに平行にならないように歪んだ状態を作る。
 そして,そのゴム板の内部の個々の点でどのような力が働いているか,考えてみよう。互いに四方八方から力がかかり,どの点をとってもひとつとして同じ力が働いている点はないだろう。なぜなら,そのように歪ませたのだから。
 このような力を考えるとき,応力stress,tension(仏)という言葉を使う。物体内の単位面積の両側が互いに相手に及ぼす力である。押す力が圧力,引っ張る力が張力であるのは言うまでもない。そして任意の点では,隣と互いに反対の力が働いていることもわかるだろう。しかし,これ以上想像力を働かせるのも,限界があるので,要するに,個々の点に働く力は皆異なるので,正確な記述をしようと思えばもっと詳しい数学的な方法を用いないといけないということを理解していただいておけばよいということにしよう。
 そして,またそのゴム板の内部の個々の点が,r= A x+  By2  + Cxy の係数ABCと似た関係にあることを連想していただければいのですが・・・。
 連想していただくことが不可能であれば,それは仕方がない。
 仕方がないが,先へ進める。こうことを考えるために考案された数学的概念にテンソルtensorというのがあって,テンション(strain)に基づくということは言うまでもない。
 ということで,r= A x+  By2  + Cxy  のABCのことを計量テンソルとか計量と呼ぶ。(内山,岩波新書p.166)
 あるいは,ボルンは計量因子と呼んでいます。そして,r= A x+  By2  + Cxy の式を「一般化されたピタゴラスの定理と呼ぶことができる」と書いてあります。(M.ボルンp.268)
 思えば遠くへ来たもんだ,とも言えるし,ほとんど,進んでないようにも見えますが,取りあえず,3月の夕凪亭閑話は,これで終わりです。読んでいただいた方に感謝。
 メダガ飼育日記の続き。昼間よく泳いでいます。餌も毎日与えております。去年手入れが悪くて痩せているのも,元気で泳いでいます。餌を与えても太りません。今朝は発泡スチロールの中の水が凍っています。メダカは大丈夫でしょう。でも暖かくなったり寒くなったりで,大変だと思います。