2015年12月11日金曜日

夕凪亭閑話2006年2月


2006年2月1日水曜日 
 春の雨である。庭のメダカが勢いを得て,浮いてくる。餌をやればいいのだが,このところやっていないので,少し暖かいからといって,与えない方がいいだろうと思い,やらずにおく。もう少ししてから活発に動き出したら,本格的に春の飼育に入りたいと思っている。
2006年2月2日木曜日
 春のような陽気である。メダカ飼育記はもう少し先になって書けばいいのでこれくらいにして,別のことにしよう。先日書いたように,北杜夫さんの「私の履歴書」が昨日で連載が終わった。北杜夫さんは謙遜されて少ししか触れておられなかったが,ブラジル移民を書いた「輝ける碧き空の下で」(第一部,第二部,新潮社)は,膨大な資料を駆使し,多くの人と場所を取材されて執筆された文字通りの大作である。その頃のことを私の履歴書でもっと書かれるのかと期待していたのだが,さらりと流されて残念であった。まあ,それぞれの本のあとがきに相当書かれているので,満足するとしよう。
「原子価と分子構造」という本が某古書店より届いた。「・・・これが有名なSchroedingerの方程式であって,水素原子内の電子の行動を記述する。もういちど注意しておくが,ここに説明した式の出し方は,決してSchroedingerの方程式の『証明』ではない。de Broglieの関係式を仮定し,さらに電子の運動が定常波系と似ていると考えたとき,波動方程式の形は式(32)のようになるであろうということを示すにすぎない。Schroedingerのような天才の直感によってこそ,はじめて式(32)は出てきたのであり,それを解いてEの値を求め,その値が実験と合うことから波動方程式を正しいといいきったのである。」(p.26)(oウムラオトが表現できないので,oeと記しておく) 著者のCartmell とFowlesという人については知らない。久保昌二,木下達彦訳,昭和33年,丸善である。ずっと昔も,そのタイトルに惹かれたことがある。その,昔の憧れで,衝動買い。おもしろい本ではないか。
2006年2月7日火曜日
 昨日は,雪。さいわい,夜になると止んで,凍結することなく,融けた。
 さて,シュレーディンガーのような天才の直感を,賞味してみるために,湯川秀樹監修「シュレーディンガー選集1 波動力学論文集」(共立出版)というのを出して見ることにした。「固有値問題としての量子化(第Ⅰ部)」と題のついた論文は,アインシュタインの相対性理論などが発表されたのと同じドイツの学術雑誌Annalen der Physikの79巻(p.361-376, 1926)に発表された。選集p.20から,冒頭の部分を引用してみよう。「この第Ⅰ部では,最も簡単な水素原子の場合(非相対論的で,かつ摂動のない場合)について,もはやそこには“整数”という言葉が現われないような他の要請によって,通常の量子化の手続きがおきかえられることを示す。実際,整数が現われるとしても,それは振動する弦の節の数のように,自然な形で現われる。そこでの新しい概念は一般化されることが可能であり,量子化の手続きの本質に深く触れるものであると私は確信している。」(田中正,南政次訳)
 案下某生再説(それはさておき),寒さにかまけて夕凪亭に閉じ籠もっていると,世界では大変なことが進行しているということを,響堂新さんの新著「BSE禍はこれからが本番だ」(洋泉社の新書148)に教えられた。国産の牛肉は全頭検査が行われているので,大丈夫だと思っている。いや,思っていた。アメリカの牛肉は,政府がいろいろと出した要求を守ってくれれば,大丈夫だろう,と思っていた。その他の国については,狂牛病が発生していないから,大丈夫だろうと思っていた。いたいたいた・・・とすべて過去形になりました。自分の問題として,もう少し勉強しないといけないぞ,と自戒。
2006年2月10日金曜日
 連日,寒い。急に自然科学の話題になったので,何のことかわからない読者も多いことと思う。これが,私のマイブームというもので,しばらくの間続く。私自身の中の流行が,しばらく続く。夕凪亭閑人だから,いろんな本を集める。そして,あちらこちらと移る。先月,高松へ行ったとき,旅のつれづれにと,朝永振一郎「量子力学と私」(岩波文庫)をポケットの中に入れて行ったのがいけなかった。すっかり魅せられて,しばらく目を通していないこの手の本を開いてみようという気持ちになってしまったのが運のつきである。・・・ということで,しばらく,夕凪亭閑人のマイブームにおつきあい願いたい。
2006年2月11日土曜日
 さて,シュレーディンガーの1926年の仕事は,20世紀の物理,化学の分野で最も頻繁に使用された「シュレーディンガーの波動方程式」を提案したものである。この方程式を解くと,エネルギーが飛び飛びになり,ニールス・ボーアが1913年に提出した理論の不備を補ったことになる。ボーアの場合は整数というのが,最初から仮定されていたので,理論と実験値がよく合ったといっても,不自然さが伴っていたということである。それでは,その間,13年にわたってどうしていたのかというと,黙ってシュレーディンガーの登場を待っていたわけではない。ボーアの理論が発展されて,すなわちボーアの考えの延長線上で,仕事がすすんでいたわけである。この時代が前期量子論の時代の後半ということになっている。パラダイムという言葉を使ったら,どうであろうか。パラダイムというのは,地動説とか,天動説とか,古典物理学(非相対的)とか,大変長い時代について言われるが,少しの期間でも,強力な理論の上で研究がすすめられるのだから,パラダイムと言ってもいいと思う。いわば,小さなパラダイムであったのだ。
2006年2月12日日曜日
  春めいてきたと思っていたら,午前中雪である。でも気温が高いせいかどんどんと融けていった。春めいた街を抜けて山のほうに行くと,落葉した桜の枝の先には5,6個の蕾が小さいながらもついている。
 昨日の続き。ニールス・ボーアの有名な1913年の論文は,物理学史研究会編「物理学古典論文叢書10 原子構造論」に翻訳されている。この「原子および分子の構造について(第Ⅰ部)」という論文は結論を先に出して後から考察するというはなはだわかりにくいものだが,整数値の導入は「系の定常状態にある核のまわりの電子の角運動量は,核の電荷にかかわりなく,普遍定数の整数倍である」(後藤鉄男訳,p.176)という前提による。
2006年2月13日月曜日
 またまた春めいてきた。しかしよく晴れていたせいか,5時半頃になると急に寒くなった。西にはいつものように美しい夕焼け,東の山の端には大きな満月が静かに登ってきた。菜の花やの句の頃には少し早いが,月は東に,日は西に,である。そして海は見えないが,大潮で干潮,というのは,潮位表を見なくても想像がつく。我は海の子,白波の・・・である。(だが,家からは海は見えない。)だから,月を見れば,だいたいの潮位はわかるのである。小学校の夏休みは,海水浴場ではない普通の海岸へ行くのだが,旧暦を見て,潮位の見当をつけて行く,という日々であった。
 さて,ボーアのことは,岩波文庫にも論文集があるし,ローゼンタール編「ニールス・ボーア」(岩波書店)という優れた本があるので,本当はおもしろいのだが,このへんでやめておこうと思う。余談ながら,昔,ニルスの不思議な冒険というアニメがあった。よくでてきていると思ったら,原作者はノーベル文学賞受賞者で,子供のための本を書こうと,綿密な取材をして書かれたということだった。ニルスというのは北欧のほうでは可愛い子というほどの意味だそうだが,それとボーアの名前が関連があるのかは知らない。
 マックス・ボルンはボーア理論について次のように述べる。「この理論は原子について,特に輝線スペクトルの法則について我々の知識を大いに進歩せしめたけれども,原理上多くの困難を含んでいる。まず第1に,ボーアの振動数の条件を正しいものと始めから仮定することは,古典理論の法則の矛盾していることを直接的にしかも何ら説明なしにいうことと同然である。そうすれば,また理論の冒頭にある純然たる形式的の量子化の法則は最初から物理的には絶対に理解できないわけのわかなないものになる。」(「現代物理学」鈴木良治,金関義則訳,p.123,なお原文は旧漢字)と,なかなか手厳しい。しかし,シュレージンガーの波動方程式に先立つこと13年前に,数値的には同じ値に達していたのだから,やはりたいしたものだと,私は思う。それに,ボーアの理論があったから,波動方程式も,完成したときその意義が明らかになったのであって,やはり1900年のプランクのエネルギー量子以来量子力学の完成に至るに必要な一里塚だったと,私は思う。
2006年2月14日火曜日
 またまた春の兆しに溢れています。庭の雑草の緑が少しずつ上に向かって伸びて行くのを見ると,私は,いつも兎を飼いたくなります。子供の頃。春になると兎を飼っていたのです。10円か15円で,近所の年上の少年から買うのです。オスよりもメスが少し高いのです。子供を産ませて増やせる楽しみがあるからです。納屋の中を探して,林檎箱と金網を出してきて,兎小屋を作ります。しかし,一週間もしないうちに犬か猫に襲われて,戸口を壊され,死んでしまいした。それで,その年は終わり。また次の年,草木が芽吹くと,同じことの繰り返しです。今度は丈夫なものを作ろうと,金物屋へ行って,錠と蝶番を買ってきます。蝶番などという言葉など知りません。今と違って,ホームセンターなどないのだから,○○を下さい,と言わないと買い物はできません。「あの,ドアの付け根の動くところの・・・」「ああ,チョウツガイ ね」・・という調子で,少年は言葉を覚えながら,春になると兎小屋を作って,飼い始めるのでした・・・・。
 話しをシュレーディンガーへ戻そう。シュレーディンガーが1926年に提案し,その後,20世紀の物理,化学の世界で最もよく利用された方程式が,なぜ波動方程式というかというと,電子を波として,従来よく用いられていた普通の波の方程式(これを波動方程式という)との類推から組み立てからである。電子の挙動があるときは波のようになるということは,現代では常識だが,当時は,電子は小さな粒子に過ぎなかった。それに波として性質を付加したのがフランスの物理学者,ド・ブロイであった。1905年のアインシュタインの光電効果の理論が,本来波であった光にエネルギーをもった粒子(光子,光量子)として性質を付加したことからヒントを得て,電子の波動性を導いたということである。だから,プランク,アインシュタイン,ボーア,ド・ブロイ,そしてシュレーディンガーという,大きな流れの中で新しい物理学が,20世紀の前半1/4の間に建設されたわけで,ちょうど100年前は,アインシュタインの多産な年,1905年の翌年で,1900年にプランクによって提出されたエネルギー量子の考えが,アインシュタインによって光電効果という形で,大きく量子論に向かって前進しはじめた年であります。
2006年2月15日水曜日
 春の雨である。どこもかしこも春である。ラヂオもテレビも春である。その春になると毎年毎年,兎を買って,飼育をはじめるのです。山のほうへ行くと,道ばたに餌になる草が生えているので,それを毎日取りに行くのが日課です。雨になると,困るので二三日分とって帰ります。ヤエムグラを食べると死にます。ギザギザしていますので,ノドヒッカケなどと呼んでいました。スイバ(スカンポ)は食べるけど,水分が多くておしっこばかりしますので,これは避けました。スイバを餌にしていたら楽だったのですが・・・。マメグサと読んでいた,カラスノエンドウ,スズメノエンドウは可能です。葉や茎から乳白色の汁が出るチチグサというのはアキノノゲシなどで,これを主食としました。手についた汁をなめると苦いのに兎は喜んで食べます。しかし,タンポポは便秘するとか言って避けていました。ということで,兎の餌を取りに行くのは結構大変だったのであります。
 ド・ブロイが1924年に物質波の考えを提唱してまもなく,電子線の干渉や回折で実験的に確かめられました。その中に我が国の菊池正士博士もおられました。これらの実験を行った,トムソンとダビッソンは1937年にノーベル物理学賞を受賞しているのに,菊池博士はなぜか逸しました。もしこのとき受賞されていたら湯川博士より12年も前のことになります。ずっと前,ある歌手は,祖父か曾祖父がノーベル賞をもらい損ねたなどという話しがあったとき,私はこのことかと思いましたが,関係あるのか無いのか,詳しいことはわかりません。それよりも,菊池博士は津山の箕作玄甫に連なる家系の方で,まさに華麗なる一族ですね。
2006年2月20日月曜日
 寒い雨だった。しかし,雨上がりの日の光は既に春のものだ。この頃は一雨ごとに春がやってくる。
 さて,シュレーディンガーだが,1926年の波動方程式があまりにも有名なために,彗星のように突如登場したような印象を受けるが,それ以前から,十分に有名で,多くの大学から誘いがあったことや,色彩論,比熱の理論,統計的熱力学など多くの仕事をこなしながらも,量子論と相対論にも関心をもっていたというとが,D.ホフマン「シュレーディンガーの生涯」(櫻山義夫訳,地人書館)に書いてある。索引や著作目録もついていて,便利な本である。
2006年2月21日火曜日
 「ボーアと量子論」(ハイゼンベルク他著,中川毅訳,東京図書)という,大昔に買った本をちらちらと見ていたら,ハイゼンベルクの「量子論の解釈をめぐって」という論文にシュレーディンガーのことが出てくる。ボーアに呼ばれてコペンハーゲンに行った。そこでの話しである。「“もし,こののろわれた量子的な飛躍にあくまで執着するならば,私はいつか量子論とかかわりをもったことを後悔するだろう”とシュレーディンガーはついたまりかけて叫んだ。それに対してボーアはこう答えた。“しかし,あなたが量子論の明確化のために非常に貢献したということに対して,残されたわれわれは,あなたのしたことに感謝しています”。」(p.173) 1926年の9月のことである。最大の功労者のシュレーディンガーさえも,後に主流となる解釈を拒んでいるのだから,外野から見ているとどうなっているのだろうかと,思うほど,難しいことなのだ。この本には,分子軌道法のハートリー-フォック法でおなじみのフォックの論文もある。
2006年2月25日土曜日
 一進一退の春の訪れも,今日は大きく前進した。昼前に県境近くの丘に登ると,やっと鶯の声が聞こえた。夥しい小鳥の囀りの中から,ホー ホケッ という感じで,まだ練習中だ。ヒヨドリが近くまで来る。40年ほど前はヒヨドリは冬に畑にきて蜜柑を啄む程度だったから,私などは渡り鳥だと思っていたが,いつの頃から年中家のまわりにもいるようになった。気候変動もあろうが,野山の昆虫が減って生態系が変わったのではないかと思う。
2006年2月26日日曜日
 最近,参考文献にある外国雑誌にアクセスすると,家庭のインターネットからでも閲覧可能なファイルが増えていると思っていたら,オープンアクセス型アーカイブといって,それらを促進している団体などもあるということである。すなわち,青空文庫の学術雑誌版といったところである。これらの状況を詳しく調べてここに報告するつもりはないので,興味のある方は,各自で検索されるといい。具体的には,例えば,hep-th/0412308というように参考文献にあったので,googleに入れヒットしたところに,目指すものがあった。プレプリントだということらしい。オープンアクセス型アーカイブのひとつである。
2006年2月27日月曜日
 春が来ました。もう,確かに春です。とはいえ,夕方大変よく晴れていて放射冷却で,びっくするほど寒くなりました。藤原正彦「国家の品格」(新潮新書)を読んでいる。実業家の某氏が,よい本だから是非読みなさいといって買ってきてくれたのである。確かによい本である。ベストセラーズに連なるだけの本である。・・・とはいえ,私はベストセラーズというのがどうも苦手である。確かに,若い頃には自分の選択眼が育ってなかったせいか,映画になったりドラマになったり,話題になったりした本をけっこう読んだものだ。しかし,年を重ね面の皮が厚くなると,本来のへそ曲がりが頭をもたげてどうしょうもない。立花隆さんの東大論も,雑誌で拾い読みしていたとき,単行本になったら是非買わなければ,と思っていても,新聞の書評で持ち上げられ,ベストセラーズのリストに載ると,もうだめである。・・ということで,しばらくは遠慮します。そして話題にならなくなったとき,静かに読んでみることにします。もし,その時その気になれば,です。「パラレルワールド」も,そうならならないうちに注文しておきました。
 さて,量子力学のはなしを書いて,それなりに復習を楽しくやっていたのですが,一足飛びに現代のほうへ,興味が移ってしまいましたので,あのへんでやめておくことにしましょう。そして,かつて鳴り物入りで紹介された「エレガントな宇宙」を,おもむろに取り寄せて,ひとり静に読むことにした。まあ,理論がどんなに素晴らしくて,常識を越えたものであっても,異国のことはともかくとして,万葉の時代から連綿と続いているこの世界が突然アナザーワルドに出会うことはありませんから,理論は理論として感心しておけばよろしい。
 そういえば,かつてUFOというのがあって,これも昔の話しで,今の若者はインスタントの焼きそばくらいしか,知らないことだと思うが,異次元から来たとか,反重力装置を使っているとか,いろいろな説があってそれなりに楽しませてもらったものです。諸説紛々の中でも,ヒトラーが生きていて,南米の何処かで第三帝国を復活して,そこで開発された新型円盤型ロケットの実験をしているんだという説が最も好きです。(今でも)。地球外知的生物の地球探査ではないかと思ったことありました。ちょうど,人類が月や惑星に探査機を送るように。
 UFOを見る会という案内が中学校の通学路に面した電柱に貼ってあり,行ったことがあります。土曜日の午後,近くの山の頂上に集まって,みんなで手をつないで輪つくります。主催者の言うことには,みんなが,UFOに会いたい会いたいと思い続ければ,よくUFOが現れるということでした。秀才だった私はすぐに,UFOはテレパシーで交信するのだと理解できましたので,必死で念じました。しかし何時間待っても,UFOは現れませんでした。その結果,ここにこうして生きているのです。もし,UFOが現れて,連れ去って南米とか,あるいは別の星か,あるいは異次元の世界にでも連れて行ってくれていれば,それはそれで貴重な人生だったのではないかと,思っております。
 それにしても,あれだけ頻繁に出現していたUFOはどこに行ったのでしょうかね。ほんとに体験した方は,そのことを証言してほしいと思います。 
2006年2月28日火曜日
 ようよう春になった。朝の日差しが,角度が違う。冬来たりなば,春遠からじ,ではないが,もう春である。二月も今日で終わり。ほんとうに時間の経つのは早いものだ。
 現代物理学・宇宙論は何が出てきても不思議ではない,といえるほど,常識を越えている。その中で,時間だけは変わらない。いや特殊相対性理論では変わると言われるかも知れないが,それは光の速さに近づいたときの話しで,地球上ではそういうことはありえない。過去から現在も,そして未来も1秒はずっと1秒である。
 さて,ここからは現代科学の解説でも何でもないので,誤解のないように。夕凪亭閑人の与太話と思って読んでいただきたい。
 ビッグバン説によると1点から宇宙が始まって今も膨張し続けているということになっている。そして時間もそこから始まったということになっている。なぜならば,その前がないのだから。そして物質もいろいろと生成したり消滅したりする。しかし,不思議なことに時間の単位はずっと変わらない。1秒というのは,ずっと1秒である。もし,この1秒がだんだんと短くなっているとか,大きくなっているとか,という説が出たらどうだろうか。短くなっているという説のほうが,経験とよく一致するので,好まれるかもしれない。年をとるとともに1年が早く過ぎると思っている人は,たくさんいるから,自分が長い間思っていたことが物理的に証明されたと喜ぶ人が増えることであろう。
 それでは,どうやってそのことを知るのか,と考えてみよう。地球の時間も,宇宙の時間も同じである。1秒は1秒である。それが,伸びようか短縮しようが,比較する絶対時計というものがないのだから,誰にもわからない。議論のしようがない。その不変な時計を神の時計ということにしよう。太古の神ではなく,未来の神でもなく,現在の神の時計である。そして我々の時計と現在の神の時計の1秒は一致している。しかし,過去には,地球上の時計の1秒は,今の神の時計の1秒よりも長かった。そして,未来の地球上の時計は(宇宙の時計はと言っても同じこと),今の神の時計の1秒よりも短くなるだろうというものだ。これが,時間が未来永劫不変ではなく,時間もビッグバン以来,減り続けているとうことだ。もし,そういう説があれば,の話しだが。
 ならば,どうすればそういう説が生まれるか。それは容易なことだ。理論に理論を接ぎ木したしてできた,ある方程式が解けなくて,時間tを減少させていけば,見事に解けて,多くの難しい実験事実を説明だきたとしよう。たんなる技術上の操作に過ぎなくても,やがて意味をもち,宇宙の時間単位は次第に減少していっているということになるのである。わかっていただけたでしょうか。物理学者がいろいろ言ってくださいますが,われわれが反物質でできた自分自身と出会うこともないし,マルチユニバースであっても,アナザーユニバースへ行くことは,絶対にないでしょう。また,光速飛行して浦島さんになって地球に戻ってくることも絶対にないでしょう。本の中とか,映画の中なら話しは別ですが・・・・。
 与太話につきあっていただいた方に感謝。それでは,花咲く春を待ちながら,夕凪亭閑話2月を閉店致しましょう・・・・