2015年12月11日金曜日

夕凪亭閑話2005年12月



師走      
2005年12月1日木曜日
 師走に入ってしまった。明け方の空はよく晴れて風が冷たい。公園のポプラの葉が黄色になって名残の黄葉を楽しませてくれる。だが,世情騒然である。 定家のように「紅旗征伐わがことにあらず」(名月記・治承四年九月)というわけでは決してない。ホームページを作るに当たって,犯罪と薬物(毒も含めて)のことは書かないと決心してはじめたので,今回も触れないことにする。
 先日放送された「ハリーポッターと賢者の石」を見た。個々の映像はよくできているし,子役もうまく演技しているのに,なぜか虚しい。次から次へファンタスティックな映像のオンパレードである。子どもにとってはけっこう楽しくおもしろいのかもしれない。
2005年12月3日土曜日
 日に日に気温が下がって行く。しかし,今朝は午前中から晴れている。二日ほど曇天が続いたので安じていたが,弱いけれども明るい陽が射し込んでいる。慌ただしい中で,録画した映画の整理や,「ブラジル日和」のラジオを聞いて活字から離れると,頭の中が希薄になったので,「辻邦生が見た20世紀末」とアランの「幸福論」を開けてみた。
 「辻邦生が見た20世紀末」(信濃毎日新聞社)は,本人が生きておられたら,決してこのような無粋なタイトルはつけられなかったことと思うが,遺稿集のタイトルとしては,内容をよくあらわしているから仕方がないと思っているが,まさにタイトル通りの新聞のコラムである。信濃毎日新聞といえば地方新聞の中でもユニークな新聞で,確か斉藤喜博さんの仕事を広めたのもここだったとはるか昔のことを思い出すのだが,この本も良い本である。10年以上も前に書かれた文章が,燦然と輝いているのは,やはり辻邦生さんの真摯でストイックな生の結晶だからである。
 何で今頃アランの「幸福論」かということになると,奇妙な因縁というほかない。長い間の念願だった「世界の名著」を揃えてみようと,古書を探して欠けているところを順次求めたところ,続12巻に「アラン ヴァレリー」があって解説が桑原武夫さんだった。桑原武夫さんは,高校の頃毎月読んでいた「図書」の常連で,古くから読んでいるが,実にいい文章を書く人だ。岩波全書や岩波新書を一冊ずつもっているぐらいで,あとは筑摩の文学全集に少し入っているくらいで,あまり本はもっていないが,その活動が多彩だったせいか,解説風のエッセーはほうぼうでお目にかかる。何しろ河野與一先生にフランス語を3年も習ったという幸運な人だから,その書かれているものは凄い。世界の名著の解説には,まいってしまった。マタタビを見た猫のようなものである。そんな理由で,偶々某月某日某書店でfolio版のProposを衝動買いしてしまったという次第。身の程知らずもいいとこで,これにはがっくりきた。仕方がないので,岩波文庫を買ったら,ぴったり合っていたので安心した。
 岩波文庫版「幸福論」のp.194「58 憐れみについて」は,みごとな洞察である。小生がお見舞いに行くことが実に嫌いな理由がまさにこれなのである。そして,アランは言う「人にほんとうに与えうるのは,自分のもっている希望だけなのだ」と。
 テレビで四国・大歩危の紅葉の美しい光景を流していた。春まで四国に行く予定はないが,四国の山河が懐かしい。そこで,四国の山と海の印象を記すあたらしいページを開くことする。
2005年12月4日日曜日
 木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」という名作の評判の高い作品を見た。「二十四の瞳」でもそうだが,何気ない会話の中に情感が籠められている。本土空襲の折り真っ先にねらわれるのが灯台であるというのは,迂闊にもこの映画を見るまで気づかなかった。新婚旅行に海外に向かう娘を灯台の灯りと霧笛で送るという話しは,いかにもこの映画にふさわしくその着想に感服。
 恩地日出男監督の「あこがれ」(昭和41年)も見た。何でこの時期に「あこがれ」?と思っていたら,木下恵介原作ということであった。もうずっとずっと前の,昔,と言ってよい頃,テレビで「木下恵介劇場」というのがあって,毎週感動的な話しで溢れていた。その映画版のようである。これも昔,内藤洋子という女優がいた。今でもアメリカにいるそうであるが。彗星のように登場して「あじさいの歌」などは毎週見ていたものだが,彗星のように去っていった。その内藤洋子さんが新珠三千代さんと共演していたので驚いた。新珠さんといえば「氷点」で親子,それも敵役の親子をやった二人ではなかったのかと,古いことを思い出した。それはともかくとして,「あこがれ」もよい映画であった。
2005年12月15日木曜日
  すっかりご無沙汰である。ちょっとアメリカのホームページへ行って英和辞典片手に悪戦苦闘していたので,コメントしたいことがあったのだが,いたづらに日にちがたってしまった。(アメリカへ行ったのではない。お間違えのないように。もうパスポートも切れているし・・・)
  4日には女優の原ひさ子さんが96歳で亡くなられた。原ひさ子さんといえば,市川崑監督の「悪魔の手鞠歌」で,一羽の雀のいうことには・・・という手鞠唄を歌ったおばあさんで,作品にぴったりの演技だった。ご冥福をお祈り致します。あの頃は横溝ブームで数多くの作品が映画化されたが,原作も,映画も「悪魔の手鞠歌」が最高で,特にこの市川作品はよかった。一人二役,見立てという推理小説の醍醐味もさることながら,岡山の山間部の抒情的で湿った人間関係が作品の背景でうまく効いている。妊娠中に火事を見ると痣ができるとか,サンショウウオが鳥目にいいとか,迷信やら伝承もうまく 使われていて,面白い。 横溝さんが,ディクソン・カー(あるいは,カーター・ディクソンといっても,同じ人物)のオカルティスムと,草子趣味を取り入れたという作品群の白眉。
  さて,昨日14日はご存知,播州赤穂の義士祭の日であった。しばらく行ってないので,休日だったら,見に行き,塩饅頭を買って,帰りに日生でシャコを買って帰るのもいいなあ,と思ったが,残念でした。赤穂といえば,塩の産地で,製法の秘伝を吉良上野介から聞かれて浅野内匠頭長矩が、それを拒んだので,恨みを買い,いろいろと意地悪された,という説が小生は好きである。塩のことも別のページにしたいが,他のところが充実してからすることにして,今日のところは諦めておこう。
 知人のSuma君から,投稿した小論がWeb Journalに載ったという連絡があった。暇な人は見に行ってあげて下さいWizard Biblehttp://wizardbible.org/  ) のWB23号です。
2005年12月16日金曜日
 今日も寒い。今年も残すところあと半月ばかり。先日,吟遊科学者と称しておられる長沼毅さんとお話をする機会があり,その後1時間がばかりお話を聞いた。それで早速「深海生物学への招待」と「生命の星・エウロパ」(ともにNHKブックス)を取り寄せてみた。生命の誕生は地球以外の他の天体なのか。地球誕生説の信者である私は,科学の進歩に愕然ときた。勝ち目はないなあ,というのが正直な感想。まあ,地球外起源説が証明されるころには,私は生きていないのだから,いいか。ということで,科学的というよりも宗教的に,地球誕生説をしばらく信奉することにする。 「生命の星・エウロパ」には南極のボストーク湖のことがでてくる。響堂新さんの「白魔の湖」のあれだ。ボストーク(востÓк)がロシア語で東だということは,私にもわかるが,なぜ東なのだろうか? 
2005年12月18日日曜日 
 今朝の日経新聞の伝えるところによれば,ホンダが太陽電池に参入する由。物作りのホンダらしくてうれしい。それに対して,SONYの元気がないのが残念ですね。元ラヂオ少年の小生は,井深ソニーなら,すべてソニー製品にするのだけれど,盛田ソニーになってから,どうも買う気がしないのですよね。もちろん会社は大きくなったし,世界中にその名を知らしめて・・・。営業の大切なことは,小生もよくわかっております。でも,技術者魂のようなものが伝わってこないような製品は,おもしろくありませんね。
2005年12月20日火曜日 
 大和雑感。戦艦大和の模型が各種販売されていて,いにしへの,プラモ作りの日々を懐かしく思い出しておられる方も多いことと思う。セメダインの匂いや,マブチモーターの心地よい回転音の記憶は,子育てをほぼ終えた世代にとっては,昔の夢よもう一度ということで,郷愁以上のものをそそられるに違いない。
 思えば,幕末,佐久間象山や横井小楠がしきりと軍艦の購入を進める。すなわち,島国の我が国の防備は,陸に据え付けられた砲台だけでは不十分で,軍艦でもって追い払わないといけないと主張する。その通りである。・・・以来,海の時代である。明治国家になっても戦争に軍艦はつきものである。日本の軍事力はすぐれた造船技術によって増していく。そしてその頂点が大和,武蔵であることはいうまでもない。しかし,時代は,海の時代から空の時代へと変わっていっていた。戦闘機に応戦するだけの戦闘機がないのだから,世界一の軍艦も何のために作ったのかわからない。何とも痛ましい話しである。
2005年12月21日水曜日 
 大和雑感,続。吉村昭さんの「戦艦武蔵」は長崎造船所における戦艦武蔵の建造にかかわる話しであるが,呉の海軍工廠で作られていた戦艦大和と同じ設計図によるものだと知って驚いたものである。大和はドッグで作られたが,武蔵はそれに相当するドッグがなかったので,船台の上で作られた。大和と同じものを船台の上で作るわけだから,想像を絶する苦労があった。それに外部への秘密保持も。呉の場合は,長崎ほど隠蔽に労を要しなかったのであろうか。「サンダガン八番娼巻館」の山崎朋子さんのエッセーを読んでいたら,当時に呉にいたことが書いてあった。そこには厳しい監視のようすは出てこなかった。
2005年12月23日金曜日 
 人口動態統計の年間推計で日本の人口が自然減に転じる見通しであることがわかったと,発表された。もうずっと前から少子化のことは言われ続けているから,あまり驚かない人も多いことだと思う。しかし,これは大変なことなのである。東洋のちっぽけな島国が世界の中のニッポンであり続けたのも,人口増加があってのことだったということは,考え方の基本として理解しておかなけれならない。
  人口が減れば土地の値段が下がって,住みやすくなると思う人がいるかもしれないが,それは過疎地のことを考えればわかるように,取り返しのつかない負のスパイラルに陥るだけである。人口減の行きつく先は,ごくごくわずかの都市を除いて,日本全体が過疎地に向かって邁進するということである。妙案がないから,出生率は下がり続けるのだが,やはり重大ごとだということだけは,理解しておきたい。
 その重大ごとに対して,毒にも薬にもならないが,次のような文章に出会った。モンテスキューの「法の精神」を拾い読みしていると,こう書いてあった。「海港では,男は女よりも少ない。しかし他所より子供が多い。それは生活資料を手に入れるのが容易だからだ。恐らく魚の油質部分が生殖に役立つ原料を供給するのにより適しているからでさえもあろう。ほとんど魚ばかり食っている日本とシナの人口が無限な原因の一つはこれであろう」(第四部第十三章)(根岸国孝訳,河出書房世界の大思想16,p.347)
 新潟市の停電は,日本でも大停電が起こりうるということを証明した。オール電化などという言葉に踊らされている訳ではないが,電化率が高まっているのは確かだ。この厳寒の夜に電気無しに一夜を送ることは考えられない。石油ファンヒーター,エアコン,電気炬燵,電子毛布,そしてわが家にはないが,電気ストーブ,ヒーターの類。電気無しで燃え続ける石油ストーブは危ないということで放逐して久しい。多くの家庭が暖をとるのに電気のお世話になっていることだろう。電力会社だって,停電が長く続くことをいいいことだとは思ってはいない。その分だけ収入は減るのだから,大損害だ。でも,こういうことがあり得るのだということを肝に命じておきたい。そして厳寒の新潟市で一刻も早く復旧されんことを。
2005年12月27日火曜日 
 変な気候も少し落ち着いたようである。特別のことはしてないが,朝から夜まで結構忙しい。世の中も少し落ち着いて,クリスマス,歳末がいつものように巡ってきたようである。景気のほうもやや上向いて,ミニバブルのようで,意外なものがよく売れているのに驚かされる。思うに,子育てにもローンの返済にも一段落着いた団塊の世代に属する人たちが,消費を押し上げているに違いない。ということは,日本経済もあと10年くらいは安泰ということか。しかし,その頃から,消費もだんだんと下がり,どう考えても明るい未来は描けない。
2005年12月31日土曜日 
 年賀状も書かず,好きなことをして冬の日を数日過ごしていたら,この夕凪亭にも世間と同じように時間は否応なく流れるものとみえて,31日になってしまった。はて,今日は何曜日だったのだろうか,とカレンダーを見れば,土曜日である。昼間走った山陽道は登りも下りも,普段よりも多く,県外ナンバー車も多く,最近では珍しく元気のよい年末であるような気がした。
 歳末の買い物客で溢れる某スーパーのリサイクルコーナーで,100円の本を4冊買った。そのうちの一つに,「河上徹太郎 亀井勝一郎 中村光夫 山本健吉 吉田健一 集」(日本現代文学全集・講談社版92)(昭和39年)というのがある。亀井勝一郎という人は,高校時代に「青春論」とかいうのを読んで,いたく感心したことはあるが,その後何か読んでも印象に残らなくて,私にはとらえどころのない批評家という印象しかないのだが,時々,そのタイトルなどに,はっとさせられることがあるので,今回年譜を開けてみた。プロレタリア作家同盟に加わったかと思うと日本浪漫派の人々との交友がでてきて(後になると太宰治などとの交流もでてくる)ますますわけがわからなくなった。
 その亀井さんは,旧制山形高校で,岡本信二郎教授に習ったということが書いてあるので,驚いた。ならば,もう少し読んでみなければ,と思った次第。