2015年11月20日金曜日

8月の夕凪亭閑話 その1(2004.8.1~8.8)

2004.8.1
  さて,8月になったので,ページを改めることにした。話があちこちと連想ゲームのように飛んでいるので,できればスパイラル状にして関連づけたいものである。そこで,今日は,パラグアイのほうに戻してみたい。一度戦後の勝ち組負け組などの騒擾の中でパラグアイのほうが移住に適していると判断された沼隈町の神原町長のことを書いたが,いかにも話が唐突でわかりにくかったと思う。沼隈町のパラグアイ集団移住について語るには,まず昭和の大合併のことから記すのが妥当だろう。
 現在町村合併が全国津津浦々で行われていて,平成の大合併というそうだが,およそ50年ほど前にも似たようなことがあった。これが世にいう昭和の大合併である。昭和27年10月1日に施行された町村合併促進法による。したがって,その時誕生した市町村が,今回また他の市町村と合併して名前が消えたとしたら,その市町村名はわずか50年ばかりしかもたなかったことになる。  
 広島県福山市の南西部にある沼隈郡については,21町村を六か町村にしようという合併構想が,広島県福山地方事務所より出された。そのうちの一つは,千年村,山南村,熊野村,浦崎村が合併して,人口22,179人,面積56.11平方キロメートルの町が沼隈郡の南部に誕生する予定であった。しかし,浦崎村は尾道市と合併を希望し,また福山市に近い熊野村は福山市と合併することを考えそれぞれがこの構想から離れた。残った千年村と山南村が合併して昭和30年3月31日,広島県沼隈郡沼隈町が誕生した。人口11,086人,面積30.93平方キロメートルである。
 そして,初代町長神原秀夫氏の政策のひとつに,パラグアイへの集団移住があった。海外移住といっても現在の我々にはピンとこないが,戦前戦後を通じて,実に多くの日本人が海外へ働きに行き,あるいは移住したことを思えば,昭和30年代において,海外移住が行われたことは特別なことではない。ただ,どちらかというと,個人のレベルで行われる移住を町をあげて行ったということで,全国的にも有名になり,高知県大正町のように似た政策をとる自治体も現れた。神原町長がパラグアイを最適地と決めたのは,南米移住地視察の結果である。以前書いたこともあるが,日本人が多く移住しているブラジルでは戦後勝ち組負け組の騒擾があったし,また何よりもブラジルは雇用農中心の移住形態であった。それに対してパラグアイは,25ヘクタールの土地分譲が最初から約束されていた。それに気候も南米にしては穏やかなこともあったかもしれない。そのようなことから考えると,昭和30年の時点でブラジルよりもパラグアイがよいと判断されたことは,悪くない判断だと思う。
2004.8.2
 沼隈町のパラグアイへの集団移住の続きである。沼隈町の集団移住といっても,多くの人がそれ何?と首を傾げる。その後節目節目の行事が大きく報道されることもなく,また現在の沼隈町のホームページにも,いっさいふれられていないのだから,町内に住んでいる方や一部の関係者を除いて,ほとんど知られていないのも仕方がない。中国新聞社のルポルタージュ「移民」には,「旧ラパスを開いたのが沼隈移住団だった。記録の上では61家族,395人が一度はラパスへ入ったことになっている」(p.253)と記されている。沼隈町移住団といい,また「町ぐるみ集団移住」とはいうものの,このルポに登場する多くの人たちの出身地からもわかるように,かならずしも沼隈町関係者だけではなかったようである。
 まずその移住団の渡航について記そう。旧ラパス,当時はフラム地区と呼ばれたパラグアイの移住地に向かった沼隈移住団は8回に別れて渡航した。渡航日と渡航船の名称は以下のようになる。渡航日とは神戸港を出航した日のことである。
 
 渡航日(神戸出航)渡航船名
第一陣19561015チチャレンガ号
第二陣1956112あめりか丸
第三陣1956125ぶらじる丸
第四陣1957115テゲルベルグ号
第五陣195742あめりか丸
第六陣1957715ルイス号
第七陣1957102あふりか
第八陣19571230ぶらじる丸
 
  一部資料に不一致が見られたので,推定したところがある。船名がひらがなのものが大阪商船の東回り航路,カタカナ名が南回り航路である。さらに,この後4回にわたり,広島県関係者11家族69名がフラム地区に入植しているが,沼隈移住団とは呼ばれていない。それは1958年4月17日,5月17日,7月4日,12月30日の神戸港出航である。
2004.8.3
  沼隈移住団のことを書くとなると少々のことでは済まないが,そうかといってあまり細部について書くのは後にしてできるだけ概要を先に記しておきたい。そこで,本日は第一陣の沼隈町出発について記す。
 第一陣の壮行式は,昭和31年10月7日,金明会館で午前10時からおこなわれた。金明会館といっても現在の地図に載っているわけではない。近くまで行ってその近所に住む若い男女に尋ねたが,知らなかった。結婚式などが行われていたようですが,というと,それならと,ずっと別の方角を示された。ということで,金明会館というのは沼隈町の人にとっても年輩の人はともかく過去の名称になろうとしているが,現在も存在する。沼隈町中山南の光照寺の本堂のことだと,土地の人に教えられた。今は使われていない。これも神原町長の発案だと思われるが,町の集会所や結婚式場として借りるかわりの整備を町財政でもったものらしい。30年の契約だったという。合併して庁舎も建てなければならない。当然のことながら中央公民館などは当面はない,ということで考えられたものだと思う。それに戦後の混乱期が落ち着いた頃から全国の農村でおこった生活改善運動の一環として,こういう場所が必要だったと考えられる。結婚式も,今ではホテルや業者の結婚式場が使われるが,全国おしなべてこのようになるのは,ずっと後のことである。結婚式は公民館で,新婚旅行は宮崎へ,というパターンが生じる少し前のことだと思えばよい。この日までに,「町ぐるみの集団移住」として全国的に有名になっていたから,多くの報道陣に取り囲まれ緊張のうちにも,壮行式は終わった。記念撮影をし(この写真は「広島県移住史」に掲載されている),そして祝い酒で乾杯。食事の後出発した。貸し切りバス2台に分乗して千年の岩船桟橋へ向かった。そこには,神原汽船の「あき丸」と福山市立鷹取中学校ブラスバンド部の生徒が待っていた。多数の親戚知人,町の関係者,報道陣で桟橋は溢れた。生徒の演奏する蛍の光,見送りの小旗,紙テープに送られて,あき丸は桟橋を離れた。このときの写真が中国新聞社の「移民」グラビアにある。現代の目から見れば,いかにも小さい。これで神戸まで? というのが,素朴な疑問である。尾道まであき丸で,そこから汽車かと思っていた。後日関係者から聞いたところ,間違いなく神戸まであき丸で行ったとのことである。途中,接触事故があり予定よりはかなり遅れたということである。岩船港に行ってみると,今も桟橋がある。定期船がかつては発着していたと思われるが,多分今は定期便はないと思う。付け根の痛み具合からそう思った。頻繁に利用されているのであれば,もっとましなものに替わっている。あのときからまもなく50年になる。多分,多少の修理はされたものの,今ある桟橋が50年前もあったのではないかと,誰もいない桟橋に立って思った。
2004.8.4
 そして,神戸である。神戸では,元町駅から北へ坂道を10分ほど上がった山本通りにある,国立神戸移住斡旋所に入る。ここでほぼ1週間,身体検査,研修,出国手続きなどをする。東と南側に向かって坂道が下がる傾斜地にある鉄筋5階建てのこの建物は,現在も残っている。もちろん,その役目も終え,外務省から離れている。看護学校や芸術家集団の活動場所として利用されている。
 1階左側に食堂,右側に風呂洗濯場などがあった。5階に講堂。身体検査,特にトラホームの検査を受けた医務室は2階だったようである。現在,1階右側が公開されていて,資料室となっている。資料室といっても,ブラジル関係が多いのだが,本,ビデオ,移民船の模型,写真などが置いてあるだけで,学芸員がいるわけでもない。出航記録など見せてもらえるものかと期待して行ったのだが,そういうものはなかった。しかし,所内を写した古い写真があり,往事の姿を伺うことがことができた。また相田洋「航跡 移住31年目の乗船名簿」(NHK出版)の元であるドキュメント番組のビデオも見ることができた。
 移住斡旋所の玄関前で第二陣を写した写真が「広島県移住史 通史編」のグラビアにある。出発前の記念写真だと思われる。玄関頭上には「KOBE EMIGRATION CENTER」という文字がはっきり写っている。これは今でも残っている。庭の植木の変容はあたりまえだが歳月の移り変わりを感じさせる。写真の左側(西側)に,今は大きな石に「ブラジル移民発祥の地」と書かれた石碑が建っている。石川達三の「蒼氓」は戦前のここが舞台である。そしてその作品は第一回の芥川龍之介賞を受賞した。
 南の坂の下が元町駅,さらに中華街入り口を経てメリケン波止場に続く。多くの移住者が列車で元町駅に降り,鯉窪川通りを上がって移住斡旋所に入った。通りの周辺の商店には渡航用荷物を扱う店が多く,移住者たちはここで調達したという。故郷に別れを告げてきた人たちが最後に接する日本人が神戸の人たちだったというわけだ。神戸の人たちも大変親切で「移民さん」と呼んで,歓迎した。1週間のうちに顔なじみになり,不安と夢がないまぜになった会話が交わされた。そして出航の日が来ると「頑張ってくるけー」「身体に気をつけて頑張っていらっしゃい」という別れの挨拶が方々で見られた。そういう歴史のある坂道である。この坂を下りて,メリケン波止場から乗船である。
 今,メリケンパークには「希望の船出」という親子三人のブロンズ像が建っている。「神戸港移民船乗船記念碑」というもので,台座には「神戸から世界へ」と書かれている。「希望の船出」とはいうものの,どこかさみしそうな三人である。時代離れした洋装と帽子がそう思わせるのか。三人の視線は彼方に向かい,子供は右手をかかげ,指さす方向はブラジルである。ブラジルは地球の反対側だから,どちらを指しても間違いではないが,船が出る海のほうを指しているので,よりブラジルの方角に近いような気がする。
 一方,ブラジルで最初に上陸する地,サントスには「この大地に夢をA ESTA TERRA」と題する親子三人の像があるそうである。この「日本移民上陸記念碑」のほうは「宮崎県南米移住史」のグラビアで見るだけであるが,父親が手をかかげる。父親の指さす方向は日本なのか,あるいはこれから赴任する大農場(これを日本人は耕地と呼んだ)なのか,私にはわからない。どちらを指しても日本ではあるが。こちらは母親が帽子をとっており,髪型が時代を感じさせる。そして子供の帽子がまた,この後の苦労を象徴しているかのように不似合いだ。希望といい夢とはいうものの,日本人移住史が苦難に満ちたものであったことを思うと,どちらの親子にもそれがよく現れていて,すばらしい作品になっていると思う。
 さて,沼隈移住団第一陣であるが,横浜から回航してきたオランダ船籍のチチャレンガ号に乗り込み,神戸港を出航したのは,昭和31年10月15日,午後6時10分のことである。神原町長と町の関係者も見送った。しかし,一部の家族を除くと,多くのものが親戚縁者とは沼隈町で既にお別れを済ませているので,ここまでは送りに来ていない。秋の日は既に落ち,船が遠ざかるにつれて,うっすらと見えていた六甲の山並みは,次第に夜の闇に溶け込んで視界から消えていった。遠くに見える明かりは淡路島や大阪のものであるが,初めて乗る船がどのあたりは航行しているかは,すぐに分からなくなった。チチャレンガ号の次の寄港地は沖縄である。
 閑話休題。このページはあれやこれやと,まとまりのないことを書くのが本来の目的であったが,あまり飛びすぎるのも読んでくださる方は大変だろうと思い,沼隈町パラグアイ移住史を書き出したら,どんどんすすんで少し,窮屈になったので話題を変えよう。沼隈町パラグアイ移住史というのは,私にとっては郷土史の一部であるが,郷土史として関心がある人物に菅茶山がいる。茶山翁は備後神辺の,あるいは広島県の生んだ江戸時代最大の詩人である。茶山翁については,地元神辺町に立派な記念館があるし,また顕彰会があり,それぞれに研究と普及そして保存にとすばらしい仕事をされており,常々敬服している次第だから,小生ごときが書き加えることは何もないのである。そこで,ここに記すことは,きわめて私的な感想にすぎないということをはじめに,お断りしておく。さて,残り1冊のみとなって完結間近の岩波書店の新日本古典文学大系105巻の中に,66巻として「菅茶山 頼山陽 詩集」として,また99巻に随筆「筆のすさび」が収録されているのは,ファンの一人として大変うれしい。これは古いほうの日本古典文学大系に89巻「五山文学集 江戸漢詩集」としてわずかに10編しか収録されていなかったのに比べればおおきな進歩である。これはそれだけ漢詩が読書として愛好されているということでもあるし,また茶山翁の評価が上がったということで,地道に研究を続けられてこられた方々のおかげだと思う。
2004.8.5
 神戸港を出るとまず最初の寄港地沖縄に,10月18日に着いた。ここでは沖縄からの移住者90名が乗船した。(多分,ボリビアへの移住者だと思うが,まだ確認できていない)。このとき,広島県人会会長の広島市出身の辰野氏から泡盛2斗,パイカン1箱等が贈られる。第一陣の出発は,「町ぐるみの集団移住」ということで全国的にも有名になっていたから,沖縄の広島県人会では第一陣を激励しようとその到着を心待ちにしていた。広島県人の結束は硬い。そして広島県人は北海道をはじめとして,各地に進出している。海外もまたしかり。
 沖縄を出航してから後,香港,シンガポール,ダーバン,ケープタウン,リオデジャネイロ,サントスに寄港して,アルゼンチンのブエノスアイレス沖に投錨したのは12月23日だった。この間約2ヶ月。到着後,船上で通関の手続きと検眼。特にトラホームの検査は厳しかった。波濤万里,船酔いにも耐えてはるばる地球の反対側まできても,トラホーム一つで上陸を拒否される。これが南米諸国が当時とっていた政策である。強制帰国となり,家族と離ればなれになるという悲劇が起こる。24日,長い航海を終え,待ちわびた上陸である。はじめての南米大陸の大地に夢と希望をこめて力強く踏み出す。報道陣や広島県人の出迎え。折しも聖夜。ここでも広島県人の歓迎を受ける。翌25日は,市内日本人会館で広島県人会の歓迎会。アルゼンチン国拓殖組合長片山氏も出席される。26日は,午前7時から,税関で家族別に荷物検査。下船は,午後2時半からである。ここからは,アルゼンチン国拓殖組合副幹事鈴木氏の案内である。バス,トラックに荷物を積み込み,河船の乗船場へ向かった。アルゼンチンの広島県人はここまで見送りにきた。出航にあたって「パラグアイがいけなんだら,いつでもアルゼンチンへ来んさい。パラグアイとアルゼンチンは目と鼻の先じゃけえ」「そのときやあ,お世話になります」というような会話がなされたかもしれない。
  「河船は七百トン位のもので,とても汚く内地の船とは比較にならない。ただ黙って寝るだけ。食事は自費で,パン,ハム,果物など一人当たり百円だが,二日目は暑いし,パンはフのようでただ水を飲むばかりであった」という記録が残っている。27日の午後2時過ぎになってやっとコレクションというところに着く。もうウルグアイとの国境に近い。岸壁がホームになっていて,待っている汽車にすぐに乗り込んだ。国際列車である。28日も外気は暑い。左右に草原をみながら,列車は北上した。空気が乾燥しているので内部は涼しい。南米は広いと感嘆したものの,単調な景色にいつしか疲労を覚えはじめたころ列車は止まった。午後4時である。アルトパラナ河に接したポサーダスがアルゼンチン最後の駅である。通関の手続きの後,列車に乗ったまま河船に乗って渡る。河の向こうは,いよいよパラグアイである。パククワ渡船場には日パ拓殖会社のの石橋亘治氏が迎えにきていた。少し走るとパラグアイ第二の都市,エンカルナシオンである。ここからトラックで居住地に行く予定が,トラックが来ていない。駅舎で寝ることになった。周辺に住む日本人が握り飯を準備してくれた。トラックが来たのは翌日29日の午前10時前だ。トラックは赤土の砂塵を巻き上げながら北に約40キロ走り,アペリアに到着した。そこに仮宿舎がある。まずまずの大きな建物。雑魚寝。一面煉瓦のような赤土だ。赤塵が夥しい。30日の午後,入植地の現場を案内される。見渡すばかりの原生林。31日になって入植の手続き。「暑くランニングシャツでごろごろしている」という状況だったという。かくして,昭和31年は暮れ,明日はパラグアイで迎えるはじめての新年となる。それはまた,はじめての,夏に迎える正月でもる。
2004.8.6
  まず,パラグアイ移住史である。第一陣が,パラグアイへ到着したので,ここで,パラグアイにおける日本人居住地について概観しておきたい。パラグアイはブラジルに比べて国土も狭く,また順次開かれたので,理解しやすい。そしてまた,戦前に開かれたラ・コルメナ移住地を除くといずれも戦後の移住地である。日本人が移住をはじめた順に記すと,ラ・コルメナ移住地,チャベス移住地,アマンバイ地区,フラム移住地,アルトパラナ移住地(別名ピラポ移住地とも),イグアス移住地である。もちろん現在は他の都市部やその周辺で商工業に従事される方もおられるから,日本人が住んでいるのは,これらの居住地だけではないが,集団的に移住がなされた地域はこれだけである。まず,コルメナ居住地である。ここブラジルに多くの日本人が移住していたころ,ブラジルの政変で日本からの移住が制限された。昭和9年に制定された移民二分制限法である。そのために,その代替地として,開かれたものである。ラ・コルメナ地区は首都アスンシオン市の東南約120キロのところに位置する。ブラジルからの調査団を派遣し,試験移住として経緯は省略するが,昭和11年(1936年)6月から昭和16年9月までに123家族,790名とパラグアイ拓殖組合職員家族54名が住み開拓にあたった。チャベス移住地は,パラグアイ第2の都市エンカルナシオンの北,120キロの地にある。ここは,パラグアイ政府直轄移住地でイタリア人,ドイツ人,ポーランド人,白系ロシア人などを入植した。日本人は137家族が入植し,さらに近隣に30家族が入植した。初代日本人入植者は1953年6月10日にラ・コルメナ地区から6家族26名である。日本からの直接入植者は1955年2月以降となる。アマンバイ地区は,CAFE耕地,あるいはジョンソン耕地と呼ばれるように,アメリカ人C.E.ジョンソン氏(元アメリカ大統領ジョンソン氏のイトコ)経営のコーヒー農場である。ここだけはパラグアイでも例外で,契約雇用農(コロノ)としての入植であった。そして,次のフラム移住地が,沼隈町i移住団が入植したところである。
 さて,本日は59回目の原爆の日である。私が平和公園へはじめて,行ったのは小学校の5年生くらいだから,ずっと遅い。しかし,私の通う小学校では夏休みの宿題帳というのを,県の組合か関連団体がつくっており,それを毎年,もちろん学年が変わっていくのだが,使っていた。その中には,毎年必ず,原爆の体験記が載っており,理解できるようになっている。それに,折り鶴の映画とか,「愛と青春の記録」とか,そういうものが,全校鑑賞になったり許可映画になったりしていたので,そういうものも結構小さいときから見ている。原爆は巨大兵器である。そしてその使用は,どのような理屈をつけても人類の愚行以外のの何ものでもない。核兵器を装備しているということは,いつ誤って爆発するかわからないということでもある。あるいは,周辺部が劣化して,危険な状態になったり,そのような危険はいくらでもある。すみやかに廃止すべきである。
2004.8.8
 昨日,マックスバリューに寄ると,若者たちがいろいろ買い込んで海へ行く準備をしていた。いいなあ,と思った。そして,昔覚えた詩を思い出した。
 青春はいかばかりうるわし,されどそは はかなく過ぎゆく,楽しからんものは楽しめ,明日の日は確かならず。
ヘッセの小説か何かにありました。それに辻邦生さんの「春の戴冠」のモノグラムにも辻さんの訳で使われていた有名な詩だから,ご存知のかたも多いと思う。作者はレディオ・ド・メディッチというから,フィレンチェの大富豪の息子。自分のことか,それとも他の若者へ向けた若き日への哀惜か。
  さて,パラグアイ移住史の続きである。フラム移住地が満植(いっぱい)になると,次に用意されたのがアルトパラナ移住地,別名ピラポ移住地である。ここは海外移住振興株式会社がが土地を購入し,1959年8月2日から入植が行われた。ここはエンカルナシオン市から東北約60キロの地点にあり,フラム移住地からは比較的近いところにある。やがて,アルトパラナ移住地も満植になり,次に準備されたのがイグアス移住地である。ここはアスシオン市の東約280キロの地点で,フラムからは,アルトパラナ移住地よりはさらに離れている。ここも海外移住振興会社が購入し1961年8月から入植が始まった。面積としては日本人居住地としては最大のものであり,また年代的にも遅く,空路移住者もおり,開拓のようすも,沼隈移住団の頃とは随分とかわってきたものと思われる。