2015年10月2日金曜日

天秀庵によせる波 ー船奉行片山数馬ー

いんのしまみち

はじめに
船奉行片山数馬は重井天秀庵城主でもあったし、三庄百梵山城主でもあった。兼務なのだろうか。それとも移動なのだろうか。よくわからない。
天秀庵城も百梵山城も海から近く、あまり高くない丘で、なおかつ背後にかなりの山をもつ、水軍城としては理想的な立地である。
船奉行片山数馬を中心に因島村上水軍の歴史を述べるのが本書の目的である。
ただ、ここでお断りしておかないといけないのは、城だの城主だのと言っているが、現在の我々が考えているお城とは格段に異なるということをお断りしておきたい。
正直言って城ではなかったと思う。では、砦かというと、それともやや異なる。ピタリと当てはまる言葉を探せば、住居である。・・でもそれではあまりにも夢がないので、水軍を語るには相応しくないので、誤解の元ではあるが、城ということにしておこう。
それだけでなく、第二家老稲井氏の本拠地に近く、何かと便利がよかったと思われる。


第1章 百梵山城跡
百梵山城跡は土生と三庄の境目付近にあるのだが、やや三庄寄りである。どちらへ出るにしても、現在と違って海岸線から近かったので、必ずしも三庄側に船を着けていたとは限らない。しかし、地の利を考えれば両方を活用したと考える方が自然である。

第3章 天秀庵城跡

















いんのしまみち