2015年6月13日土曜日

因島城跡物語 第3景の2 釣島箱崎浦の戦い

いんのしまみち なかのしょうみち  みつのしょうみち はぶみち たくまみち

伝説とロマンの島 因島城跡物語
                 著者:sumihara、tombosou623crystal           
第3景の2 釣島箱崎浦の戦い 因島村上氏誕生〜


2015.7.14..画:©tombosou 、協力:sumihara

場所:因島総合支所の西側の海、土生、田熊、三庄、中庄
時:1377天授3年(南北朝時代の後半)
戦者:伊予水軍頭領村上師清  V.S.因島支配者今岡通任
結果:勝者の村上師清の子、吉豊が翌年長崎城主となり、因島村上氏の時代が   はじまる。6代180年間続く

因島村上氏のことを述べるなら、この釣島箱崎浦の戦いのことを述べないといけない。しかし、そのことを記した古文書がある訳ではない。「後太平記」のような文学作品に頼るしかないので、特に細部についてはどこまでが史実でどこからが作者の創作であるかは、わからない。

1377年天授3年というから、足利義満が京都室町の「花の御所」に移った年の前年である。すなわち南北朝時代はさらに15年ほど続くにしても北朝方の室町幕府の支配が確立して平和が戻ったころである。それなのに、その一年前に南朝方の村上師清が北朝方になった今岡通任を破り因島の支配者になるというのもおかしな話である。

因島村上氏の起源がわからないと、後のことも迷路のように感じる。そこで、因島村上氏の元祖ともいうべき人であるから、少し村上師清のことを述べておこう。
そして、繰返すが、これはひとつのフィクションである。諸説紛々どれが真実かは、決定しがたい。諸説の紹介と比較は、後日機会をとらえてやりたいところであるが、今回は最も単純な話を紹介しよう。

村上師清は信濃の人である。瀬戸内に下向して伊予村上氏を率いていた同族の村上義弘の死の報に接して、南朝の吉野へ参上した。そこで長慶天皇から瀬戸内海の南朝勢力をもり立てるよう要請された。(そのような指示を得られるよう要望して、それが通ったということであろう。)
1377天授3年3月、師清は紀州雑賀港から出航した。兵船30艘というから熊野水軍や雑賀集の協力を得たのであろう。
因島へ来るまでの戦歴がおもしろい。
讃岐塩飽島 塩飽三郎光盛を征服。(瀬戸大橋辺り)
備中神島 稲住氏を征服。(岡山県笠岡市神島)
味方を増やしているのだ。
越智郡大島 長慶天皇の命を伝える。大島宣言。(しまなみ海道、伯方島の次の島)
それを聞いた、村上義弘の元部下たちが能島に集まって協議した。能島評定。一応天皇のお墨付きをもらっているとはいえ、それを本物と判断する能力などない。義弘と同族だと言われても、その証拠はない。よそ者が大言壮語して配下になれと言っているわけである。現に名門北畠家の出てあると語っていたのである。怪しいと思っても、逆らうのは冒険である。なぜなら、讃岐と備中で味方を増やしてきているのであるから。
この能島評定の結果、大勢は師清の言うことを聞いて師清を頭領とすることに決めた。
しかし、よそ者に勝手なことはさせないぞ、と反骨の精神に溢れた男がいた。因島の今岡通任である。
©tombosou

紀州回りは現実的ではなく、吉野から雑賀へ出たという説が有力である。

「三島伝記」には以下のように書かれている。(「因島市史」p.164による。)
北畠師清、予州能島城主村上三郎左衛門義弘卒と聞き、その跡を継がんとて紀州刺賀(雑賀)浦へ出、兵船三拾余艘をもって予州へ下る途中、先讃州塩飽七島を手に入れ、さらに児島、神島を降して三島明神に参拝、明神から伊予河野国司へ連絡、翌日能島務司本城へ落付き給う。これより浦々島族恐伏して降礼をとった。師清の子顕長(室は村上三郎左衛門義弘娘、於竹と申候)、備後国因島に在城する、因島の主上原前監入道祐信病死のため跡なきにより、顕長を直し給ひ、義弘後家は幼少なる子供を連れ、家宝並に諸道具、義弘まで伝わったものを持ち、部下家頼、砂田、櫛橋、宇賀島などを召連、殿浦に住居す(後略)」 因島の主上原前監入道信のは別字)




因島には北朝方の今岡通任が島前城、その配下の大鳥義直が中庄・茶臼山城に陣取り、攻め手の村上師清が海上から攻めた。

©tombosou

合戦場跡。
竹島城跡と島前城跡。手前の島は亀島。生名島立石山より。©tombosou



©623crystal 岡野明神藤原神社のビャクシン。
©623crystal 島前城主今岡通任の長子藤原通宗が戦死した場所に後に岡野明神藤原神社が建てられ、岡野姓、藤原姓の先祖神として祀られている。後に植えられたとものと推定される大ビャクシン。


©tombosou  妙泰神社。
竹島箱崎浦合戦の悲話として妙泰夫人の活躍を記しておきたい。茶臼山城主大鳥義直の弟、大鳥宗義が戦死したにもかかわらず、宗義の妻妙泰夫人は、城主義直の影武者となって戦ったという。しかし敗軍は四散し、妙泰夫人は土生から田熊に通じる道でついに討たれた。その近くに妙泰神社が建ち、この道を妙泰越えとも言う。対潮院の西側の道をあがればすぐに見える。また、島内には妙泰神社の分祠というものもあり、女性の願い事を聞いてくれると、参詣者は多い。


©tombosou  三庄・観音寺から千守城址と狸薮を望む。三十三観音の向うに土生・小丸城跡、天狗山が見える。その左の高い木のあるところが戦場となった狸薮である。


合戦後
この合戦で勝った村上師清は翌年末子吉豊を長崎城主にしている。この村上吉豊が因島村上氏の初代である。このとき、師清は三原の刀鍛冶を招いて刀剣を作らせている。刀剣には南朝年号が入っている。
この刀剣を作ったところは、市民会館、図書館の北東の谷で、土生と田熊の境にある串畑谷であるが、鍛冶後(かじがせど)と呼ばれている。

©tombosou 田熊の鍛冶後(かじがせど)望遠。
©tombosou 田熊の鍛冶後(かじがせど)。