2015年5月18日月曜日

尾道市因島 因島城跡物語

いんのしまみち ➡️序章 

伝説とロマンの島 因島城跡物語 著者 柏原林造、住原俊治、村上知之


はじめに

これは郷土史の本ではない。城跡を訪ねた感想である。ここに砦があったのだろうね、瓦など出てこないから、お城と言えるようなものではない、掘っ立て小屋のようなものだろう、などと勝手なことを、方々で言いながら歩く。その延長である。

共著者の3人は、因島を中心に旧道、峠道、野山を、それぞれがカメラと鎌や剪定鋏をもって徘徊している。山道は人が通らなくなったら、棘や蔦葛に覆われる。手入れをしてくださっている方々に感謝しながら、その一助にでもなればと、遊歩道にはみ出した小枝や枯れ枝等を刈りながら歩く。時に、周囲がよく刈り込まれて展望のよいところで、再び自然の勢いで元に復そうとしている所があれば、管理して下さっている方々の意に沿うようなお手伝いをして通過する。

西行や芭蕉の後塵を拝しているわけではないが、やはり名所旧跡には多少の回り道をしても寄る。
そんな中に、村上水軍というのは胡散臭くて嫌いだなといつも言っているのに、城跡と呼ばれるところも入っている。
ある時、S.S.が城郭配置図というのより、砦の絵でも描いてあれば、もっと想像しやすいのに、と言った。それを聞いたtombosouが描いてみましょうと言ってアウトラインを示した。S.S.が古城の写真やら、映画のワンシーンから参考になりそうなものを探して示すと、tombosouがそれらしきものを描いて、説明が必要だから623crystalのブログで使うようにと提案した。そのころ623crystalのブログでは、個別の城跡の紹介と探訪記の二本立てて構成されていた。前者は文献主義に徹し、典拠のないことは記さないつもりであったので、イラストの趣旨と反した。そこで新たに城跡物語として、イラストへ解説風エッセーを添えることにした。これなら想像もまじえて、気ままに書ける。
当然、写真もあったほうがよい。写真はそれぞれが持ち寄ったが撮影者を記すことにした。このように三人の主たる分担が明瞭になった。とは言え、主たる分担であって、協同作業であった。誰かが資料を見つける、それをもとに海岸線だの地名など議論する。もちろん結論などでない。それをもとにtombosouが描きなおす。623crystalは説明文を変える。確認に行こうと言って出かける。こんな作業の繰り返しであった。
解説風エッセーでは形式は統一しなかったが、次の二点に特に留意した。まず、城跡だけでなく周辺のことにも触れ、全体で因島の紹介になるようにしたこと。そして、歴史的な記述においては日本史の流れの中で書くようにしたことである。

繰返すが、本書は歴史書や研究書ではない。おもいつきや想像のかたまりである。誤解や独りよがりな見解も多いと思う。新しい見解は、読者が自ら探究され発展されることを願う。参考書の一部を巻末に記しておいた。
城跡の場所。制作:tombosou。

配列
年代順に並べてみた。

中庄小丸山城跡物語 片刈山城跡物語 島前城跡物語 竹島城跡物語 平田城跡物語 堂崎山城跡物語 一ノ城跡物語 茶臼山城跡物語 長崎城跡物語 荒神山城跡物語 青影城跡物語 山伏山城跡物語 大江城跡物語 天神山城跡物語 土生小丸城跡物語 百梵山城跡物語 土井城跡物語 千守城跡物語 三庄土井城跡物語 美可崎城跡物語 幸崎城跡物 大浜土井城跡物語 青木城跡物語 馬神城跡物語 天秀庵城跡 細島茶臼山城跡物語





要点
要点だけ記せば、以下のようになろうか。

中庄小丸山城跡物語 1221承久3年辛巳の承久の乱前後。
          承久の乱前は、初代地頭釜田兵衛。
          承久の乱後は、北条左近将監。
片刈山城跡物語 公文所に清原森高が住んだ。

島前城跡物語 竹島城跡物語 1333元弘3年の元弘の変以前が、上原祐信。元弘の変以後、今岡通任横領。

平田城跡物語 堂崎山城跡物語 1343興国4年康永2年癸未 4月14日。広沢五郎ら堂崎山城落城。後、小早川の支配下。
一ノ城跡物語  1344から1427年までの83年間が小早川時代  
茶臼山城跡物語 大鳥義直(本によれば直康)の居城。今岡通任の部下。小早川へ備える。
長崎城跡物語 荒神山城跡物語 1377年(釣島箱崎浦の合戦)の翌年から180年間村上氏。ここから因島村上氏の時代。

青影城跡物語 1462以後第一家老救井氏の居城

山伏山城跡物語 青影城の西の要害 遠見岩 
天神山城跡物語  宮地大炊助忠明が最初に住んだところ
大江城跡物語  第四家老宮地大炊助忠明


土生小丸城跡物語 第二家老稲井家治の居城 居館は対潮院 
百梵山城跡物語 船奉行片山数馬
千守城跡物語 庄園時代の公文所なども考えられるが百梵山の支城的な位置づけ。
三庄土井城跡物語 第五家老南彦四郎泰統の居館

美可崎城跡物語  南彦四郎泰統の奉行金山亦兵衛康時が住む

幸崎城跡物 土井城跡物語 村上丹後守

青木城跡物語  村上吉充
馬神城跡物語  第三家老 末永矢治馬介景親 
天秀庵城跡物語   船奉行片山数馬
細島茶臼山城跡物語  弓瀬家2代弓瀬宗三郎

あらすじ
城跡、居館に関した古い記述では
1221承久3年辛巳の承久の乱後に、初代地頭釜田兵衛の居城であった中庄・小丸山城並びに地頭屋敷が、北条左近将監の所領となった、とあるから、中庄・小丸山城跡を最も古いものとして、最初にもってきた。

次も中庄で、片刈山城跡である。
南側の谷に屋敷跡(公文所)がある。清原森高の居城と伝える。田中稔「因島史考」p.20とあるから、これも古いことである。公文というのは公文書のことで、それを取り扱う所が公文所である。行政府ということになろうが、地方でもやはり、集落の中心であったに違いない。そして、中庄であるから、荘園の事務を取り扱ったことだろう。江戸時代の庄屋のようなものだと思ったほうがわかりやすいだろう。

荘園と言えば因島の歴史時代は荘園時代から始まるといってよい。因島には中庄、三庄、重井の三荘園があった。中庄には大浜、外浦、鏡浦を含めてよいだろう。椋浦が荘園としての三庄の一部であったかはわからない。重井は重井浦だった。後に重井庄となる。
また、土生、田熊も次第に人口が増えて、三庄に組込まれる。土生と田熊とを併せて三つの庄園だから三庄というのはおかしい。土生庄、田熊庄とは言わないのだから。三庄の区域が広がったと思ったほうがよい。三庄は御津庄で、表記が変わった。

そこで、公文所跡だと言われる三庄の千守城跡をここで記すのがよいのだが、どう見ても砦として水軍が無視しそうにないので、もう少しあとで登場してもらうことにしよう。

そうすると、次は水軍時代に先立つ島前城跡となり、それとセットになっている竹島城跡が続くということになる。
1333元弘3年 因島の開発名主・因島本主治部法橋上原祐信(島前住)、元弘の変で絶家。その後、今岡通任横領。
ここに南北朝時代があって、堂崎山城と一ノ城が入る。

1343興国4年康永2年癸未 4月14日。広沢五郎ら堂崎山城落城。
南党大館右馬亮、備後因島城に拠る、是日、北軍攻めて之を逐ふ、尋で、城主広沢五郎降る、

鼓文書、康永2年4月14日(13430040140) 2条。大日本史料、6編7冊613頁
堂崎山はこのように1343年に落城である。

そのあと、1344から1427年までの83年間が小早川時代だから、一ノ城の時代となる。このところは、資料的にも乏しく一ノ城をどの時代にしようかと迷っていたのだが、椋浦の小早川家の墓という史跡が蜜柑畑の中にあって、その入り口付近にあった説明板にそう書いてあったので、安易だが、従うことにした。

そういうことだから、一ノ城時代が終わると舞台は再び西側に移る。

1377天授3年 霜月15日。信州更級から下向した村上師清、今岡勢を破る。(釣島箱崎浦の合戦)
ということになって長崎城跡で因島村上時代になる。

よって長崎城時代が始まる。そのあと、重井の青木城主、新蔵人吉充が向島の余崎城に移るまでが、長崎城が村上家の本城となる。それに合わせて家老たちをまだ登場していない城跡へ配置すればよいことになる。

荒神山城は長崎城とセットである。また、田熊の天神山城は中庄の大江城とセットである。細かく言えば、天神山城が大江山城の前史ということになる。

因島村上氏の時代は第一家老の住む青影城を中心に中庄を述べ、田熊の山伏山城もそれに絡める。

そのあと再び土生に戻って、三庄へと転じる。
そして大浜、重井と続けるのがよいだろう。

1600の関ヶ原で水軍時代は幕を閉じる。その後の略史は終章でまとめる。