2015年4月20日月曜日

因島重井町 とうびょうがわら

しげいみち
2014.12.13.白滝山中腹より。夏になってもここで泳ぐ子どもは最近はいないが、かつては絶好の海水浴場だった。きれいな砂浜があるし、潮の流れはおだやかだ。引き潮のときでも、相川、勘口沖を西流した潮流と長崎沖を北上する潮流がぶつかり、三原沖へと流れ込むせいかどうか知らないが、流速は大きくない。
水落あたりに発してフラワーライン入り口から宮の裏を流れるこの川は「とうびょうがわら」と古くから呼ばれていた。結核療養所のようなものがあって、「海浜荘」と呼ばれていたのか、それで「病闘川原」とか。あるいは例の神功皇后伝説にからんで、この浜で錨を下ろしたので、「投錨川原」とか。何しろ伝説とロマンの島だから、伝説は多いほどよい。さて、トウビョウだが、土生の郷区に「とうびょう稲荷神社」というのがあって、「東廟稲荷神社」と書く。
この辺りは重井の東のほうだから、だれか偉い方を葬ってあれば東廟と呼んでもおかしくはない。柏原神社を柏原廟と呼ぶように八幡神社を八幡廟、すなわち東廟と呼んで悪くはなかろう。
あるいは、神社ついでに「灯明がわら」がなまったものというのはどうだろうか。
また、中庄公民館の裏山が大江城跡で、具体的な城跡らしきものは見るわけにいかないが、そこに小祠があって「大江投錨」と呼ばれている。山口辺りまで昔は海だったというから、この辺りに投錨したのであろう。それを祀るというのは住吉神社のようなものだろうか。だから、村上水軍だって、ここに投錨して、投錨がわらと呼んだとしても悪くはない。

この船玉神像は、江戸時代に大阪高津新道天王寺御用仏師田中主水に作らせたもので、もとは因島青木城内投錨河原にあった船玉神(豊玉毘売令)を再現させたものではあったが、後にこれが厄病神(とうびょう)として嫌われるようになったことはどういうことであろうか。村上公一「村上海賊史」(因島市史料館)、1972、p.33   このことに関して村上公一氏は厳島神社が船玉神として海上生活者に格別に信仰されていたが、平清盛が海賊武士団を配下に置くのに平氏の氏神とした。南北朝時代以後、厳島神社が海上守護神の性格を失い、金比羅宮に移った。その推移を表すかのように、因島では神社としては厳島神社が多く、海に沿った灯籠などには金比羅関係のものが多いと説明している。ならば、重井の投錨川原が厄病神(とうびょう)・「病闘川原」になるのは金比羅宮の栄える南北朝から戦国時代以降のことになるのだろう。

2016.4.14.


2016.4.14.