2015年3月6日金曜日

因島重井町 善興寺

しげいみち


御調郡教育会編、「御調郡誌」(大正14)p.472に以下のようにある。曹洞宗(重井村)玄通山と號す、天和三年三原香積寺五世大嶽文禎開山寳永二年再興天保十三年三月八日焼失弘化二年九月再建す。

2016.5.5.「曹洞宗 通玄山 善興寺」。

2016.5.5.南面「昭和四十八癸丑歳九月 當山現董十七世良淳代」。

2016.5.5.台石南面「施主 大阪 岩蔵出 峰松倉太郎」。




2015.1.7. 総覧46 善興寺門柱  


2016.5.5.西側の門柱。北面「観音妙智力」。


2016.5.5.「能救世間苦」。「妙法蓮華経」の「観世音菩薩普門品 第二十五」(観音経
)の17節に「衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦」とある。 観音様の妙なる智力はよく世間の苦を除くということ。

総覧48 門前の石柱  総覧47 先祖代々の菩提碑


 2016.5.5.北面「為先祖代々菩提 村上勘藏 村上忠作 村上椣(?)平 藤氏三太良 峯松七九郎」。

 2016.5.5.北面下の方「村上勘藏 村上忠作 村上椣(?)平 藤氏三太良 峯松七九郎」。

2016.5.5.東面「為先祖代々菩提」下部に人名。

2016.5.5.東面下部「村上元右衞門 村上善七 村上庄右衞門 村上伊三郎 藤氏藤吉」。


2016.5.5.南面「明治元戊辰十二月十四世代」。


総覧47 先祖代々の菩提碑 裏面








2015.2.1. 総覧49 門前の仁王像 西側。





2015.2.1. 総覧49 門前の仁王像 東側
尾道石工太兵衛の作。丸本家の村上十兵衛(東側)と宇根家3代の柏原林蔵(西側)の寄進。

2015.1.7.総覧70 大東亜戦争 慰霊碑。(左)。総覧 71 戦役記念碑。(右)



2015.1.7.山門と庫裡。
2015.3.28.石段の塀外側にある瓢箪を彫った石。(右、西側)。
2015.3.28.石段の塀外側にある駒を彫った石。(左、東側)。左右併せて「瓢箪から駒」を示す。柏原林蔵の寄進と言われる。その真意は不明。

2015.1.7.総覧50 山門入口の石柱 「不許酒入山」 (くんしゅ)の山門に入るを許さず」の石柱。


2015.1.7. 総覧53 血分経塚。  血分経塚(けちぶんきょうづか)

2015.1.7.閻魔堂

2015.1.7.中央:閻魔大王。向かって左が五王。首から上がないのが1体。右が六仏。3体が首から上がない。


54 閻魔堂灯籠



2015.1.7.本堂と庫裡。総覧59 本堂前の石灯籠。2基。

2015.1.7. 総覧51 嗽盥 尾道石工太兵衛作。

2015.1.7. 総覧57 法華塔。

2015.1.7.総覧58 道元禅師六百年供養碑。


2015.1.7.



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2015.1.7.芋地蔵堂   両側に石碑がある。左が西側である。
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総覧62 芋地蔵菩薩。芋地蔵。種芋を抱えた下見吉十郎立像。「宝暦五年六月一日 岩蜀(てへんあり)釣信士 下見吉十郎」  芋地蔵(大三島)
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2015.1.7. 総覧55 子安地蔵尊。総覧56 六部廻国地蔵塔。
子安地蔵。左手に幼児を抱いている。台座は六十六部廻国供養塔。
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廻国供養塔の刻銘
天下泰平 肥後國天草郡世濠村
             供
奉納大乗妙典日本六十六部廻国
             養 
嘉永元戌申十一月吉日
日月清明
      願主 長五郎 
         この女


雲州 賜願主 勝三良
   世話人 居合中 


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       十四代
 鐵岸寿禄信女
文政十三寅
香岸宿梅信女
 二月十四日
2015.1.7.総覧52 観世音菩薩 「久遠之慈母」。総覧68 久遠の慈母像台石。
2017.2.26.善通寺前の手水鉢。「奉寄進」「氏子中」

2017.2.26.「氏子中」

参考:
因北地方の曹洞系について、三原香積寺の記録によると、因北六か寺は全部三原香積寺末である。本、末寺としての関係の生じた年代は詳びらかでないが、慶長前後であるとみた。しかしおそらく小早川氏との関係によるものではないか。
 青木茂編、「因島市史 全」、因島市史編集委員会、昭和43年、p.882

室町初期の頃村上、柏原氏等の入村以来着々開発の歩が進んだことが窺われ、これと同時に故国信濃の名刹善光寺にちなんで同韻の善興寺を建立し菩提寺とし更らに八幡宮の造営を行つて鎮護神を祠り益々開拓がさかんに進んだので(以下略) 向井鶴太郎
因島文化財保護委員会編、「因島市史料第九集」、因島市教育委員会、昭和四十二年、p.96

これは怪しい!! 





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