2015年3月17日火曜日

因島中庄町 金蓮寺

なかのしょうみち

*****地図*****
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2015.3.7.雨の中、早春といってもやや寒い日の、寺迫の金蓮寺。右が資料館、水軍城。
2015.1.18.


なぜここに村上元三氏などの碑があるか書いておこう。かつて、因島が舞台の村上元三氏の小説「八幡船」が映画化されたからである。現在見ることこのできる「八幡船」は昭和33年発行の東京文藝社発行のもので、定価320円である。章のタイトルに「青影城」「村上水軍流」などと書かれている。

2015.3.7.「伝説とロマンの島」なら、これはこれで十分おもしろい。しかし、中学校の社会科の夏休みの宿題か何かで、このようなレポートを出したら、点がもらえるかおぼつかない。
田中稔、「因島史考」によると、次のような史実がある。(全てが原文通りではないが。)
1449文安6年(宝徳元年)8月。宮地大炊助明光・資弘が金蓮寺を外浦から中庄に御堂を引き再建。(p.88)
1567永禄10年 村上新蔵人吉充が余崎城から青木城へ移る。(p.30)
1577天正5年 土生長源寺焼失。(中庄に移り長福寺となる。)(p.10)
       秋以降。金蓮寺、村上家の菩提所となる。それ以前は土生島前の長源寺。(p.88)
1600慶長5年 村上新蔵人吉充、青木城を去る。(p.30) 

このことから、外浦町の谷間に分散していていたものを「因島村上氏の一族及びその家臣を含めた墓石群」(説明板の文章)と言っていいのだろうか。

もし、この年代が正しいとしたら、外浦にあった金蓮寺にあった墓碑は誰のものなのかという疑問が生じる。村上水軍(因島村上氏)との関係はないことになる。

伝説に過ぎないかもしれないが、「因島市史」p.164に興味深い文書が出てくる。
義弘後家は幼少なる子供を連れ、家宝並びに諸道具、義弘まで伝わったものを持ち、部下家頼、砂田、櫛橋、宇賀島などを召連、殿浦に住居す
青木茂「因島市史」p.164

村上氏墓 金蓮寺にあり、五輪及寳筐院塔形のもの十数基あり、口碑に云く、舊墓地は開拓して田畝とし墓碑をこゝに集めたるなりと。
広島県編、「広島県史. 第3編」、帝国地方行政学会、大正13年、p.488


後に、一族の墓をここ金蓮寺に集めたという説もある。

村上氏の残留者は、祖先の墓を今の金蓮寺のある狭い谷間へ集めた。その移動作業は夜間に行なわれたとも言い伝えられている。墓を背にして夜道にころびながら、ここへ運んだので、「こけこけ参る金蓮寺」という言葉が今に伝わっている。また廃絶してしまって、普通に歩いては近寄れなくなったのでこう言ったともいう。松岡進「瀬戸内水軍史」、昭和43年第三版、p.585


宮地明光の墓 金蓮寺にあり。
明光は、鳴滝山城主弘躬の二男なり、應永中村上義弘の家臣となり、因島に住す、寛正三年六月八日歿。
因島中庄新田碑  僧祖艦外二人
因島中庄之北、有曲江、土演而沃、曾小田庄九郎者、築隄以爲新田、無機爲風波所損、再
叉圯、爾來無人有築者、今茲癸已之春、尾道豪亀山氏、一日來見、以謂遺址猶存十
之三、(以下略)
広島県編、「広島県史. 第3編」、帝国地方行政学会、大正13年、p.488



外浦金蓮寺跡