2015年3月23日月曜日

因島重井町 重井町誌

重井の「重」は「しげみ」であり、「井」は「水路、高くそびえる山」をさしている。青木茂、「因島市史 全」、因島市、昭和43年、p.28
建武二年
中之荘 初め加茂の神領たりしが、建武五年尊氏によりて東寺に寄附せらる、神領なりし時村上家預りなりしが如し、建武二年地頭職を浄土寺に寄せたり、應永頃より再び村上家預りとなる、貞和四年小早川氏之が代官となり観應には本主となりたり。三津荘 重井荘 共に當初の本主は文書なければ知るに由なし、中庄と共に建武二年に地頭職を浄土寺に與へられ、同五年に東寺に寄附せらる。其他中庄と同じきものと見るべし。正安中有(二)三津荘(一)(東寺文書)延元中有(二)中庄重井庄(一)(浄土寺文書)(以上大日本史)
澤井常四郎編、「御調郡誌」、御調郡教育會、大正14年、p.23、第一地誌 荘園所領。
1683天和3年
天和三(一六八三)年の安芸(広島県)南生口村宮原の神主土井助大夫手記に生口島一円、高根島、佐木島、因島重井、岩城島へ琉球芋の種子が配布されたとあり、(以下略)
平凡社編、「風土記日本 第2巻 中国・四国篇」、昭和35年、p.219
澤井常四郎編、「御調郡誌」、御調郡教育會、大正14年、p.69 第三社會 戸口では
重井村 文政二年381戸2173口、明治十一年876戸、明治廿一年961戸4749口、大正十一年893戸4594口。
中庄村 文政二年422戸2285口、明治十一年632戸、明治廿一年640戸3328口、大正十一年625戸3556口。

澤井常四郎編、「御調郡誌」、御調郡教育會、大正14年、p.95 第三社會に以下の記述あり。重井尋常高等小學校 明治六年善興寺を校舎に充て振徳學舎といふ尋いで大師堂に信誠舎を置く、八年八月振徳學舎を重井學校といひ、信誠舎を分教場とす、別に細島に分教場を置く、十年二月校舎を新築し大師堂分教場を廃す、十五年二月須越に移轉す、十九年細島分教場を廃す、二十二年郷新開に新築す、二十六年十一月高等科併置す爾来數囘増築擴張して現今に至る。
また町村小學校状況(大正十三年四月)の表より學級數尋常科14,高等科4,教員數本務19庶務,2,児童數尋常科745,高等科169である。
また、實業補習學校生徒數131教員數専任 2兼任 7私立圖書館 1(大正十三年四月)


 松本賢編、「ふるさと三庄」、三庄老青会連合会、昭和59年、p.37に次のようにある。
明治四十五年(一九一二)因島重井の大師講連中の発起で島内八十八所に堂宇を設立し、大師入寂の旧三月二十一日を期して巡拝を始めたのが始まりである。


中国新聞社編、「瀬戸内海 下巻」、中国新聞社、昭和35年、p.160
採藻海面も、以前は東は岡山沖、西は呉沖まで出かけたが、いまは福山市田尻沖から竹原付近まで、それも海底の藻場が、魚の産卵場で絶好の住家だとする漁業確保の理由から、不振を叫ばれている内海の漁業問題と、微妙にからみ合い、年年漁業組合との交渉が難航し、採藻量も制限、採藻権利金も、期間中百円だった昭和二十八年から、三年たった三十二年四倍の四百円に値上がりした。

重井町写真
網野善彦他監修、「日本民俗写真大系4 瀬戸内海の東西」、日本図書センター、1999、p.2に中村昭夫氏の1961年のカラー写真。除虫菊畑、重井中木造校舎、長串。

「写真記録日本の街道ー瀬戸内〈中国・四国の海路〉」、日本ブックエース、2011、p.165に除虫菊畑の写真。白黒。馬神(東側)から小細島にかけて。